「対処能力がある」ということ
「消化不良と不眠、それにときどき発作的に自分自身や他人が――主に自分ですが――たまらなく嫌になります。もの凄い悪夢のようです。……消化不良のせいで途方に暮れ、閉じ込められ、本当にうんざりです」
寝られなくて頭がぼーっとしていても仕方ない。長い人生にはそういうときもある。
いつも完全に熟睡できるわけではない。
また皆が熟睡できているわけではない。他の人と違って自分一人がいつも熟睡できることを求めているということ自体がおかしい。
誰だって心配事があるときには眠れない。皆と違って自分だけはいつも熟睡できなければならないと要求するのは無理である。
自分は特別でなければならないというのはノイローゼの傾向である。熟睡できなければ熟睡できないで仕方ない。寝ぼけた体でできる仕事が自分のできる仕事である。
その心構えが現実への対処である。
自分はそれ以上できる「はず」だと思うことがおかしい。それ以上できない自分に不満になることがおかしい。
熟睡できる「はず」だというのは現実無視である。「実際の自分」を受け入れていない。だから現実に対処できない。
「実際の自分」は心配事があれば眠れない。どこでもいつでも熟睡できるような肝っ玉の大きい大物ではない。
熟睡できないから体が不調でも、その不調な体でできることが「実際の自分」ができることなのである。
それが対処である。それが「対処能力がある」ということである。
もし熟睡できていれば、こんなに頭がぼーっとしていなくて、もっと能率よく仕事ができるに違いない。そう思うのは「たら、れば」である。