自分はスーパーマンではないと受け入れる
「ああ、ああ!私を綿にくるみ、今すぐ引き出しの中へしまって鍵をかけてくれ。我慢の限界です」
我慢の限界と思うのは、自分の要求がとびきり凄いからである。要求がとびきり凄いのはそれだけ心の傷が凄いということである。
「これだけできなければいけない」と思いながら、その10分の1しか仕事ができない。
その焦りは大変なものである。その仕事ができるかできないかに自分の価値がかかっていると思えば、焦りも凄くなる。
焦りながらも、いっこうに仕事がはかどらない。その苦しさは凄まじい。そこで「我慢の限界だ」となるのだろうが、もともと原点の要求が大きすぎる。
現実無視の過大な要求である。非現実的なことを要求することをやめれば、我慢することは何もない。
自分は万能ではない。スーパーマンではない。それさえ受け入れられれば我慢することはない。
そこまで要求するのは、自己不在だからである。
非現実的なほど高い期待を自分に課すのは、それによって自分の存在を感じられるからである。そこまで人に認めてもらいたいからである。
普通に生きているのでは、自分という存在を感じることができない。普通の人では自分という存在が感じられない。
そこまで彼の内面が脆弱になっているのである。前出のジョージ・L・ウォルトンは次のように書いている。
「……彼がときどき肝臓を患ったのであれば、たいていの人が、出世するたびに肝臓を患うことになる。実際には、彼は普通の人よりもはるかに頑丈だった。……カーライルには名声もあり、尊敬もされ、友人もたくさんいた。輝かしい成功への扉は彼の前で開かれ、偉大な知性と、後悔しなければならないようなことは決してしない良心を持っていた。それなのに、なぜ彼は耐えられず、また忘れることもできなかったのか?ほんとうになぜなのだろう?
答えは一つしかない。カーライルはカーライルだったのだ」
幸せになれないときに、焦っているときに、イライラしているときに、悔しいときに、「カーライルはカーライルだったのだ」という言い方を借りて、「自分は自分だったのだ」と言ってみることである。
自分の心が変わる以外に幸せになる方法はないことがわかる。自分が今の自分である限り仕事の能率がもっと上がらなければ焦る。
不幸を受け入れなければ人は悩む。
完全なる状態を要求するが故に彼は不幸なのである。しかし完全な状態を目指して努力する人でも幸せな人はいる。
どこに違いがあるか。
それは幸せな努力をする人には、心の中に隠された敵意がないということである。したがって不安と焦りがない。
憎しみから自分に完全であることを要求する人は、不安と焦りに苦しめられている。
カーライルは自分が健康に対して抱く誇張された理想を実現できずにくよくよ悩み、その悩みに押しつぶされた。
カーライルも欲張りだった。健康に対して抱く極端な理想を実現しようとしたために悩んだのである。
「彼は普通の人よりもはるかに頑丈だった」と先に述べた本には書いてある。
人間は欲張りというだけでこれほど苦しむ。自分が苦しんでいるときに、外側に原因を求めると、いつになっても苦しみは消えない。苦しむのは自分の心に何か葛藤があるからである。
その葛藤を解き明かす努力をすることが何よりも大切である。外側はどれほど完璧でも、それだけで人は苦しみから逃れられない。
実際には、彼は普通の人よりもはるかに頑丈だった。それにもかかわらず彼はこれほど苦しんだ。
エピクロスの「すべての悩みがなくなるような力を求めてはいけません」という言葉と、シーベリーの「不幸を受け入れる」という言葉をカーライルが実行できたら、彼はこれほどまでに苦しまなかったろう。
ありのままの自分を受け入れられていない。理想の自我像としての自分と、「現実の自分」との乖離。自分への失望。これが些細なことを、もの凄い苦悩にする。些細な病気を大袈裟に苦しむ人は「不幸を受け入れる」ことができない人である。
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