ウケる文章ではなく、書きたいことを書くのが純文学

――選評では、文体の新しさを評価している意見が多かったです。

文章って、結局は読む人しだいなところがあるじゃないですか。フラットに書かれた文章だと、作者が意図した通りには読まれないかもしれない。なので、こっちのフロウを文体と言葉選びの水準に落とし込んじゃえば、読む人の頭の中で音がなくてもフロウが再生産される。

「マスメディアはゴミ、俺が片づけてやります」。“俺なりの夏目漱石『坊ちゃん』”を書いて、すばる文学賞を受賞した大田ステファニー歓人のパンチライン《後編》_2

――フロウを落とし込むにあたって、とくに登場人物のセリフにおいては、ネットスラングをはじめ、隠語や略語も多用した独特の言葉遣いが特徴的でしたが、文学賞への応募作という公共性を考えると、万人に通じないというリスクもありますよね。

そのへんは考えても仕方ないので、もしスベったら海外にでも遊び行って、しばらくかおりんと幸せに暮らして、傷が癒えたらまた書けばいいやっていう。取材に協力してくれたサイバーヒッピーのやつらのためにも、嘘なく、曲げることなく、自分のフロウを込めることを優先した結果ですね。

作家は目の前にあるテキストに向き合って全力を注がない限り、何をやっても能なしで終わり、みたいなことを誰かが言ってました。たぶん保坂和志さんだったかな。だったら、うちも全力を注ぐしかない。どう読まれるかとか、どの層に響いてどのくらい金が稼げるかとか、そういうのを考えてたら、集中も切れちゃうし、ウケたくなっちゃう。ウケるのを書くのは余裕なんで、それよりも、自分の純度を高めるほうを優先しました。

――ウケるのは余裕ですか?

作家ならみんな余裕なんじゃないですか。ウケる文章なんていくらでも書けるけど、誰かの反応とか評価よりも、自分の書きたいものを書いている人の作品が純文学だと思うので。

ちょっと前までは大衆小説とか、中間小説とか純文学とか、そんな区分けがあることも知らなかったですけどね。エンタメも夏目漱石も全部一緒に読んでたので。なんなら、純文学って、文学にうるさいやつを揶揄するシネフィル的な言葉かなと思ってたくらい。ただ言われてみると、エンタメと純文学だとページをめくるスピードとか違うよなって気づきました。今では“純(じゅん)な文学”って、自分に嘘つかないピュアな作品、めっちゃかっこいいじゃんって思ってます。