ウクライナとロシアの
歴史のめぐり合わせ
2月27日(日)。ウクライナ本格侵攻から4日目。きのうの生中継でかなり疲弊したこともあって、正午に宿舎を出て取材スタート。チェルニウツィ市の志願兵、義勇兵受付所(commissionaire)の取材に赴く。
プレス担当のタチアーナ・ポポーヴィチさんは迷彩服に身を包んだ若い女性で、歓迎された。まさか日本からこの地に取材陣が訪れるとは思ってもみなかったようだ。基本的には建物の内部は撮影禁止と言われ、タチアーナ氏が何人か選んで玄関口の外の路上に連れて来た志願兵にインタビューするが、その後、受付所の建物内部の取材が許されてから見た光景がより生々しかった。自分たちの祖国を守るというよりは、ロシアの侵攻に対して、立ち上がらざるを得ないという理不尽な状況が伝わって来た。
迷彩服ではない普段着で椅子に座っていた志願兵らしい男性と妻に話を聞いた。過剰に愛国心丸出しの義勇兵タイプとは全く異なる普通の夫婦だったので、その分、いろんな思いが伝わってきた。外国籍のポーランド、ルーマニア、モルドバ、イタリア、スペイン、ジョージア(グルジア)、チェチェンから来た人々も申し込んでいるという。
志願所の建物を撮影していたら、すぐ近くで何とあるモニュメントをみつけた。詩人のパウル・ツェランの肖像とレリーフだ。思潮社のパウル・ツェラン詩集を読んだのはもう半世紀ほど前の学生の頃だ。まさか彼の生誕の地がこのチェルニウツィとは知らなかった。
よくみると、ここはとても古いヨーロッパの街並みだ。東欧ユダヤ系の人々がかつて多く住んでいたようだ。アウシュビッツの悲劇の主舞台でもある。そのロシアがナチス化を攻撃するとして「東部ウクライナでジェノサイドがあった」とか言って介入してきた経緯を考えると、歴史のめぐり合わせを考えざるを得ない。敵を憎むあまり敵と同様の行動をするのだ。
夜、宿舎で眠っていたら23時半過ぎに、いきなり宿舎の受付のおばちゃんが息せき切って部屋をノックして来て「空襲が始まる。早く逃げて!」と言ってくる。鬼気迫る表情だった。ええっ! 僕は、となりのI、Tのいる部屋、そしてKの部屋をノックして起こして回って、避難が必要だと言われた旨伝えた。
すぐに着替えてリュックを背負い、歩いて2分ほどの近くにある防空壕(地下シェルター)に誘導され避難させられた。この狭い地下の空間に、最終的には60人くらいの宿泊客及び近隣住民がいた。
猫1匹と犬2匹も一緒だ。みんな不安そうな表情だ。Tが撮影を始めたら、赤ん坊を抱えた男性が怒ってやめろと言ってきた。その際、よく聞き取れなかったが、「キタイスキー(中国)」という語はわかった。彼はひょっとして僕らを中国人だと思っているのかもしれなかった。他の人々はとても静かだった。退避は1時間あまりで終わったが、まさか、ここでもこんなことが起きるとは。
それにしても、ここの人は皆とても親切だ。僕の隣に座った4人家族はキエフからこのチェルニウツィに逃げてきたのだという。夫はITエンジニア、妻は科学者、高校生くらいの息子と赤ん坊がいた。夫はプーチンのことを「ゴプニク(盗人)だ」と言っていた。