「いつかいなくなっちゃうような危うさがあった」
――生前、体の不調を訴えたりしたことは?
そういうことは言わなかったし、不調そうにも見えなかった。でもたこちゃんは、もしかしたら自分の体を顧みないところはあったかも。左目がほぼ見えないのだって、子どものころに友達と投げ合ってた泥が目に入ったせいだけど、母親に心配かけまいとすぐに病院に行かなかったのが原因。
右耳が欠損してるのは、由利さんの弟子時代に経営してた「たこ部屋」って居酒屋で客と揉めて食いちぎられたからなんだけど、それも手術後にちゃんと病院に通わずガーゼも換えなかったから壊死しちゃったわけだし。
――そうだったんですね……。
お酒もそうだよね。パンチドランカーが飲酒って脳にいいわけないから、朝からウイスキーを飲もうとしてるときなんかは僕が「朝からはダメ」ってボトルの中身を窓から全部捨てたことがありました。本人も飲み過ぎの自覚はあったのか、「すべて酒は朝とひるはのまません」(※原文ママ)と誓約書を書いてました。
――しかし、44歳での死は早すぎました。
たこちゃんが死んでしばらくは忙しさに追われてたけど、やっぱり1ヶ月後くらいに、ふと「本当にいなくなっちゃったんだな……」って感覚に襲われて。そう思うと涙が止まらなかったよ。
でも思い返してみれば、誰もがみんな世話を焼きたくなる愛すべき人だったけど、いつかいなくなっちゃうような危うさがあったとも思います。
外波山さんいわく、たこ八郎のトレードマークのあの前髪には「一本筋を通す」と言う意味が込められていたという。
どこか得体が知れなかったたこ八郎だが、44歳での死は早すぎる。赤塚不二夫いうところの「現代の妖精」のまま逝ってしまった、たこ八郎を今改めて偲びたい。
取材・文/河合桃子 写真提供/外波山文明
集英社オンライン編集部ニュース班