なぜ椎名が仲間と家族を同じ地平で描けるようになったのか
『サヨナラどーだ!の雑魚釣り隊』においてはそうかもしれない。椎名は相変わらず〈隊長〉を名乗るが、皆を率いるのではなく追いかけている。房総、瀬戸内海から高知、宮古島、最後は思い出の八丈島。隊員たちは同年代から、20代まで。椎名は今年、79歳になった。
権威をもって父が息子を眺めるように、というより、むしろ息子が大人を仰ぎ見るように、椎名は書く。敬愛の入り混じった眼差しで、隊員ひとりひとりのどこが好きなのかを、遊んでもらう立場から綴っている。
なんだかヌルくなったと読む人もいるだろうが、1980年代からでも、2000年代からでも、かつて椎名に夢中になり、しばらく忘れていた人はぜひ読むといい。自分も、椎名と同じだけ年齢を重ねたと実感するし、仲間や家族との距離感の変遷も脳裡をよぎるだろう。
読み進めるうちに、なぜ椎名が仲間と家族を同じ地平で描けるようになったのかにも得心がいく。誰かを護る必要がなくなるタイミングは、自分が衰えたときではなく、彼や彼女の実力を認めたときにこそ訪れるのだ。
文/藤野眞功
【1】椎名誠『哀愁の町に霧が降るのだ』(下巻/小学館文庫)より引用。
【2】福田和也『罰あたりパラダイス』(扶桑社)収録の座談会を参照。『日本の家郷』で三島由紀夫賞を受賞した福田が泥酔し、アレックス・カーの作品を「なんだこんなの」と床に叩きつけたり、車谷長吉が持っていた巾着を取り上げ、ぶんまわした挙句、「おまえ、才能ないよ」と本人に通告した夜のことを、担当編集者であり福田の小宇宙を構成する仲間のひとりでもあった中瀬ゆかり(新潮社)が語っている。
【3】福田和也『作家の値うち』(飛鳥新社)を参照。椎名が雑誌『文學界』に発表した硬文学『黄金時代』に、福田は32点をつけた。同書で示されている点数基準によれば、39点以下は〈人に読ませる水準に達していない作品〉ということになる。福田が椎名につけた最高点は59点〈読む価値がある作品〉で、『武装島田倉庫』に与えられている。
【4】椎名誠『フィルム旅芸人の記録』(集英社文庫)より引用。
【5】椎名の実質的なデビュー作『さらば国分寺書店のオババ』(情報センター出版局)が刊行されたのは1979年の11月だが、同年2月には、会社員としての肩書き(「ストアーズレポート」編集長)で、『クレジットとキャッシュレス社会』(教育社)を商業出版している。
福田は1985年に慶応大学大学院の仏文学専攻修士課程を修了し、退学。実家の福田麺機製作所の社員として営業を担当しながら、後に『奇妙な廃墟』(国書刊行会)として発表される原稿を書き続けた。1989年に完成し、公刊。
【6】壹岐真也は、かつて扶桑社に在籍した編集者。福田とともに季刊文芸誌『en-taxi』を創刊し、編集長としてリリー・フランキーの『東京タワー』を担当。久住昌之(原作)と谷口ジロー(作画)による漫画『孤独のグルメ』を生み出した編集者でもあり、同作の完全オリジナル小説である『孤独のグルメ望郷編』(壹岐真也・著/扶桑社)の執筆を許されるほどの信頼を得ていた。現在、フリーランス。
澤口知之は、イタリア料理の料理人。五反田「イル・クアードロ」勤務時にデビュー直前の福田と知り合い、意気投合した。イタリア修業を経て帰国後、六本木「ラ・ゴーラ」を開く。2003年、六本木「アモーレ」を開店。2012年、体調不良のため閉店。2017年、死去。福田の原稿にたびたび登場し、自身も文を能くした。料理人としてリリー・フランキーと対峙した『架空の料理 空想の食卓』(扶桑社)は、とくに面白い。
【7】『さらば国分寺書店のオババ』(情報センター出版局)より引用。
【8】商業出版の看板としての「ノンフィクション」では、たとえば椎名による下記の加工は「新発見」になりかねない。『哀愁の町~』(下巻)に掲載された沢野ひとしの日記(4月11日)を引用する。
〈相手を突き倒すことばかり考えている椎名や、歯を磨くために生きているようなイサオや、恋人のノリちゃんのために勉強しているような木村晋介など、いろいろ人間は生きる道を見つけている中で、ボクはいったいどうしたらいいのだろう〉
上の日記は、実際に残された克美荘日記と「ノンフィクション」的には同一ではない。日付も4月11日が、5月3日に加工されている。
〈相手を突きたおすことばかり年中考えている勲君や、歯をみがくために生きているような椎名の誠君や、ノリちゃんのために勉強している晋介君等、いろいろ人間は生きる道をみつけているなかでボクはいったいどうしたらいいのだろう〉(『自走式漂流記』新潮文庫より)
では、椎名による「非ノンフィクション化された日記」と「証拠物としての克美荘日記」で、真実性の優劣を競うことは可能だろうか。
福田は、立川談春と墓を巡った(『俺はあやまらない』扶桑社)。柳家小さん、六代目円生、先代桂文楽、志ん生、円朝。「逢仏殺仏 逢祖殺祖」と題して、その日のことを書いた。末尾にはこう――〈文中の福田以外の発言も、すべて福田が再構成、あるいは創作したものであり、文責はすべて福田和也にあります〉。
談春を護る、というだけでは足りない。そこに核心があるわけではないと思う。政治的に、「形式」として嘘だということにすれば、ほんとうに「嘘」になるのか。はたまたその逆は?
【9】長女の葉は、小学生時代から「私のことは書かないでほしい」と椎名に伝えていたため、『岳物語』には登場しない。椎名は本人の許しを得て、後に『娘と私』(『はるさきのへび』集英社文庫に収録)を著している。葉がアメリカへ旅立つ物語であることが、双方の黙契を思わせる。
【10】椎名誠『岳物語』(集英社文庫)より引用。
【11】福田和也『作家の値うち』(飛鳥新社)を参照。
【12】『罰あたりパラダイス』において福田自身が意識していたのは、椎名ではなく、矢作俊彦『複雑な彼女と単純な場所』のような風合いだろう。矢作に対しては、『作家の値うち』でも最上級の評価(「あ・じゃ・ぱん」90点)を与えている。だが、ふたりの書くものに相通ずる部分は少ない。福田は、矢作よりも国語に誠実だからだ。
【13】『グロテスクな日本語』(95年刊)から『贅沢入門』(2002年刊)あたりまでは、福田にも「父としての家族」を描こうと試みた瞬間があった。「集団を率いる父」としては、椎名と同じように多くの仲間を育てたといえるだろう。酒井信、大澤信亮、鈴木涼美、佐藤和歌子から明石陽介(「ユリイカ」編集長)まで多士済々である。
【14】『福田和也コレクション』(1/KKベストセラーズ)巻末の寄稿(伊藤彰彦)によれば、福田は2011年に出奔し、メルモ(手塚治虫)によく似た女性編集者と暮らしているという。しかし、その新たな家族についても福田は書いていない。