褒めるという次元を越えたキャラ造形
次に「ひとりの息子の父」【9】として、椎名は岳に同じ筆法をふるった。正確にはまったく同じではなく、文体や虚実の塩梅が調整されているので、作家自身によるカテゴライズでは『岳物語』はエッセイではなく、〈私小説〉【10】とされているわけだが。
それにしても、岳のキャラクター造形は見事だ。褒めるという次元とはまったく別の水準で、彼はとびきり魅力的な快男児として世間に披露された。『岳物語』は数百万部を売り上げたが、キャラクター化された本人は苦労しただろう。この作品を機に、父子の間に長きに亘って深い溝が生まれたことについては、椎名も岳も否定していない。
その後、椎名は〈怪しい探検隊〉についても隊員の人選を変えた。物書きになる前から付き合いを始めた友人たちではなく、作家としての仕事をきっかけに仲を深めた公私の狭間に位置する者たちと〈いやはや隊〉を結成し、従来よりもキャラクター造形に抑制を利かせるようになったのだ。
仲間を書き、家族を書いた椎名のまわりで起きたこと
他方、福田和也は父としてではなく、最初から「息子」として現れた。『「内なる近代」の超克』において設定された蕩児の自画像は『罰当たりパラダイス』で加速し、雑誌『en-taxi』誌上で花開く。椎名とその仲間たちが『本の雑誌』を作ったように、根城となる雑誌を器から創り出した点でもふたりは似ている。
かつて福田は、椎名の小説を指して「エッセイの骨法を脱していない」【11】と評したが、今では、その判断を覆している可能性もある。2007年の力作『俺はあやまらない』において、福田が仲間たちと繰り広げた小宇宙は明白に、あるいは無意識のうちに椎名の骨法を踏襲しているからだ【12】。
だが、同じように「ひとりの息子の父」となった福田はついに「父としての家族」【13】を描かなかった。福田が描き続けているのは「息子としての家族」だけだ【14】。
椎名は仲間を書き、家族を書いた。書かれた家族の心はいったん離れたが、短くない時間を経て、帰ってきたそうだ。その間、椎名の筆法は変わったのか。集団の父を演じていたころ、あるいは子供らの父であったころからは変わっただろう。岳や葉がもはや子供ではなくなったように、椎名も父ではなくなった。父でなくなった男は、ふたたび息子に戻るのだろうか。