土地は自分のものであるか
宇佐見 田中さんのデビュー作「冷たい水の羊」には下関の街の選挙の話が出てきますよね。今作も舞台は下関で、一つの巨大な家系が街を牛耳る、その政治性が背景に書かれています。下関という土地の政治性についてはどのように考えていらっしゃいますか?
田中 下関って変な土地で、辺境ですよね。中心じゃないんです。政治的に保守なんだけど、都にいるのとは違うから、地方の豪族みたいな荒っぽい気質と穏やかな気質の両方があるんです。ただ、あそこは選挙があっても無風なんです。いつまで経っても何も変わらない。ずいぶん理不尽じゃねえかという気持ちが私にはあります。
宇佐見 なるほど、必ずしも出身地=中心だと考えなくていいわけですね。私は中心が絶対にどこかにあるってあまり思わないんです。
田中 わかります。私はただネタが切れてるから下関を書いているだけで、別に東京を書いたっていいと思っています。ただ、東京に対する恐れがあるから、あまり手出しができない。都会というこの物質、情報、経済をどう描けばいいのか、大きすぎてわからない感じがします。
宇佐見 私は神奈川県で育ったので、地方でも都市でも、どちらの出身でもない感じがあります。あえて言えば郊外、なのかな。沼津市出身で神奈川育ちで、東京の近くにはずっといたので、東京が怖いという感覚はないんですが、くだらないとは思う。渋谷と新宿がとにかく嫌いなんですよ。汚いですし。学生の頃に渋谷に行くことが多かったんですが、やっぱり憎らしい気持ちになる。だから土地を描いている作家さんを見ると、すごいなと感じる反面、自分にはできないと思ってしまいます。『くるまの娘』では群馬を舞台にしましたが、旅をしている設定なので、土地の歴史を描いたわけでもないですし。私には土地というのが自分のものではない感覚があります。
田中 私にも、下関が自分の土地であるという感覚は全くありません。ただ舞台にするためだけにあるんだ、という感じです。政治についても、実は別にどうでもいい。政治ってそんなに立派なものか、とも思うんですよ。大江さんやそれ以前の戦後派のような政治性は私にはありませんし。選挙なんて特番を組んでやるほどかって思ってしまうほどです。なんでそう考えるのかというと、政治家がほぼ男ばかりであることへの反発なのかもしれません。
宇佐見 確かにこの作品では権力者である男性と、そうではない女性の描き分けがされていますよね。作中に出てくる女性には慎一の伯母さんの福子と彼の母親のるり子、それから朱音と朱里がいます。福子は暴力の被害を受けていて、るり子も作中の重要な真実を知らされていないわけで、その意味では被害者かもしれない。それから、名前が記されない源伊知の妻もいます。彼女はあえて名前が奪われていると思うのですが、そんな妻が最後に、巨大化した源伊知の死体を前にして困っている人々へ向かって放つセリフが、私はすごくいいなと思ったんですよ。「故人なりに何かよほどの事情があるものと思いますが、女の頭で考え切れるものではございません。そうかといって、このままにしておくわけにも参りません。それだけは私にもよく分ります。どうぞ、ご遠慮なく、どのようにでも切り刻んでやって下さいませ。」痛烈な言葉でした。
田中 あそこは最後に付け足したんですよね。何かぶっ壊して終わらせたいなという気持ちがあって、だったら急に身体が大きくなったことにしてしまえって。あまりひどければ編集者が何か言うだろうと思いながら。
宇佐見 作中ではもう一つ、別の葬式の場面がありますよね。るり子が血の繫がっているほうの息子の葬式に行くんですが、あそこも凄まじい。石段を登っていくと、男ばかりがずらっといる。その、大きな波のような場面が……。
田中 ああいう地形は地元のものを借用しています。自分の知っている風景を使っているから、わざわざ作り込まなくてもいいですし。本当は井上ひさしさんみたいに長編を書くときに地図を作ったりしたいんですが、考えているだけで終わっちゃいそうで。そうならないように、考え始めたら書くようにしています。
書かれなかった膨大な時間
田中 実は、元々はこの物語を書くはずじゃなかったんですよ。他に書こうとしていたものがあったんですが、いろいろと書いているうちに無理だな、と思い始めて。編集者からもそれはやめておいたほうがいいって助言があったから、そうしました。ずっと考えていたものは一度捨てて、新しくA4一枚にプロットを書いて、一から始めたんです。
宇佐見 それでもかなり情報が詰まっている部分がありますよね。とくに、土地にまつわる歴史的な話とか。
田中 多少、資料を読みましたが、それは外側を埋めるためですね。内側の部分では自分の知識や体験を使って書きましたけど、中身がどうもスカスカだなという感じは拭えませんでした。そのスカスカのところを言葉が通り過ぎていく、そんな具合に書いていました。
宇佐見 田中さんのお話を伺ってきて、ご自分の作品や文章をすごく厳しい視点で見つめられているんだなというのがわかりました。朱里が作家である慎一に厳しいことを言うのは、その表れなんですね。
田中 私には人間全般に対して偏見やコンプレックスがあるんですよ。人間ってなんでこんなに厄介なんだっていつも思っています。おそらくは女性に対する穿った見方もあると思う。だから、朱里の慎一に対する厳しい態度は、私が女性をどう書くべきかと意識しすぎた結果なんですね。
宇佐見 私は「蛹」を読んだとき、田中さんがかぶと虫の雌を描く、その描写にぐっと心を摑まれました。日本の近代文学、現代文学で見られる、男性が無自覚に女性を捉える眼差しには好きではないものもあり、その意味で朱里に共感を覚えた部分もあるのですが、「蛹」の女性の身体の捉え方は、虫になっていることで相対化されていて自覚的で、すごく好きでした。虫に置き換えるとこう描くことができるのか、たしかに素敵だと思ったんだろうな、と素直に受け入れている自分の感情に驚かされました。この雄のかぶと虫は雌のことが本当に綺麗に見えたんだなというのがはっきりと伝わってきたんです。
田中さんは動物を視点に書かれることが多いですよね。『地に這うものの記録』では鼠でしたし、今回は謎の怪物が出てきます。田中さんの文章からは動物の身体性を意識しているのがわかります。今作の怪物も最初は何者かわからないので、一体、何の話なんだろうと思って読んでいました。でも、いきなりお母さんの肉体を貪り食べていることが明かされる。あそこは衝撃的でした。
田中 ありがとうございます。でも、本当は人間で引っ張ったほうがいいと思うんです。いろいろ考えたんですよ。怪物には一切喋らせないとか、人間の視点だけで書くとか。それもかっこいいじゃないですか、叙事的で。だけど、現代の長編小説で叙事的な物語を書くってすごく難しいんです。「蛹」なんかは割と叙事的なんですが、あれは短編なので最後まで引っ張れたんですよね。ある程度の長さでリアルなものを入れて書くとなると、そうは行かない。だから今回書いてみて、人間の視点でもうちょっと頑張ればよかったかなという反省はあります。怪物に逃げてしまったかな、と。ただ、そこで語りをそっちへ逃がすことによって、なんとか話が繫がったような気もする。人間の視点だけだと保たないなと思ったんでしょうね。だからこいつに喋らせておけ、みたいな感じでしたね。
宇佐見 それは読者にとっての面白さを重視しているからということですか?
田中 うーん、というか、いつも長編を書くときには横穴というか、抜け道を用意しておくんですよ、私は。本道を進めていって、難しくなったら抜け道へ逃げる。それからまたどこかで合流したり、離れたり、道に迷ったりといったことの繰り返しで書いています。その先でどこに行き着くか、行き着かないかは自分でもわからないんですが。
先ほど長編小説の書き方がわからないと言いましたけど、自分の感覚では、長い物語の最後の部分を小説として書いているイメージがあるんです。この小説に出てくる登場人物たちの祖先は無限にいるわけで、作品に書けるのはその無限に連なる時間の尻尾の部分だけというか。小説には物語に書かれなかった時間だけじゃなくて、作者である私がこの世のなかで見聞きしてきた様々なことの蓄積も詰まっていると思ってもいます。だから読まなきゃ書けないな、といつも思う。これは作家の宿命みたいなものですね。
宇佐見 書かれなかった祖先たちが物語のなかに居る、というのはまさにその通りですね。例えば、朱音と朱里が源伊知から与えられた家には巨大な本の部屋がありますが、あの大量の本が示しているものからは膨大な広がりが感じられて、それが作品を厚くしているのではないかと私は思います。田中さんの作品には古今東西の様々な小説の引用が何かしらの形で入っているのが一つの特徴だと思うのですが、今のことと繫がるような気がします。
田中 さっきも言ったように、言葉というのは昔から連綿と繫がってきた普遍的なものなんですよ。先達がたくさんいて、その果てに、自分が端くれとして小説を書いている。なので、そのときに、今では見捨てられたような古いものも含めて、膨大な過去の作家が書いたものを意識するのは詮方ないことなんじゃないかと私は思っています。
あと、私小説を書いているつもりはないけど、自分という要素をどこかで書いておくことは意識してやっています。なんというか、自分ぐらいは自分の手で助けてやりたいという気持ちがあるんです。他人はあまり構ってくれないので、自分ぐらいは自分を救ってやらなきゃなと思っていて。突き放しながら、なんとか命を繫ぎ止めてやっているみたいな、そんなつもりで小説を書いています。
宇佐見 私は現時点では三作しか刊行していないので、おっしゃったことを完全に理解して消化できているかというと、まだそうではないと思います。でも、きっといつかは今日のことを思い出して活かせるときが来るのだろうなと、お話を聞いていて思いました。田中さんの、ご自身の小説に対する厳しい視線や、その先にある美学を感じることができて本当に幸せな時間でした。たくさんの学びを、ありがとうございました。
(2023・6・29 神保町にて)
「すばる」2023年9月号転載