映像化しようとするたびに死人が出て頓挫してしまう、呪われた小説『夜果つるところ』。作家の蕗谷梢はその謎を解こうと、関係者の集まる豪華客船に夫の雅春とともに乗り込んだ。一癖ある面々を相手に取材を進め、新事実も明らかになるが、証言を聴くほど疑惑は深まるばかり。そもそも呪いとは何だったのか? 真実はどこにあるのか? 謎が謎を呼ぶ展開で読者を引き込む恩田陸氏、そのメタフィクション小説『鈍色幻視行』、そして作中作の『夜果つるところ』が二ヶ月連続で刊行されました。約15年の連載期間を経て完成した『鈍色幻視行』は、当初ミステリ的な物語になるはずが、書き進むうちに創作を巡る話へ傾いていったという。恩田氏が長年作品を愛読してきた松浦寿輝氏と、書くことと読むこと、創作について多角的な方向から語っていただきました。
構成/綿貫あかね 撮影/神ノ川智早
“おはなしの神様”に愛された人
恩田 昔から松浦さんの作品を愛読していたので、今回お目にかかってお話しできるなんてとても光栄です。以前、自作解説の評論集『方法叙説』を読んで、そのときは全然理解が及ばなかったのですが、近年読み直してみたらすごく腑に落ちるところがありました。
松浦 あの変な本まで読んでくださったとは。どうもありがとうございます。
恩田 『鈍色幻視行』は、もっとミステリ寄りの物語になるはずが、途中からだんだん主題が創作論へとシフトしていきました。完成してから、なぜこの小説を書いたのだろうと自問したときに、『方法叙説』を思い出したんです。松浦さんの小説には、必ずどこかでフィクションの枠が溶けるところがある、と思っています。ご著書の『名誉と恍惚』は小説としてのエンタメの完成度が高くなるに従って、フィクションの枠が溶ける官能の場面が出てくる。そこが私の書いている小説と共通しているような気がしました。
松浦 溶けるというのはどういうことでしょう。
恩田 松浦さんの小説には、主人公が夢や幻覚を見る場面が必ずありますよね。でもあれは夢ではなく、フィクションの枠組みそのものを溶かそうとしていると感じるんです。
松浦 いやあ、それは鋭い。
恩田 小説の完成度が高くなるにつれて、それとは逆の力で、松浦さんが詩に戻りたがる瞬間が必ずある、というように読めます。そこが、この作品で私が書いた創作論的な部分と少し重なるものを感じて、松浦さんの創作についてのお考えを伺いたくなりました。
松浦 なるほど。恩田さんはたしかに今回、『鈍色幻視行』と『夜果つるところ』の二作品で、物語と物語の外部との入れ子状構造をつくるという趣向を示された。いってみればこれはフィクションの枠自体を溶かしてしまうというか、問い直すという試みですよね。僕の想像ですが、恩田さんは恐らく、子どもの頃から無数の物語にとっぷり漬かって生きてこられたわけでしょう。途方もない量と密度の「語り」のストックを記憶の中にたくわえていらっしゃる方だと思うんです。読者として読んで魅了されてきた物語の富の蓄積の厚みがあり、それをスプリングボードのようにして跳躍し、ご自身の物語宇宙を作ってこられたんだと思う。
この二作品では、物語から物語へと次元を超えて運ばれていくといった、めまいのような感覚を覚えました。まず、事の起こりである『夜果つるところ』がある。これは一種のゴシックロマンですね。由緒正しいゴシック小説の傑作と言ってもいい。全ページに濃密な闇が澱(よど)んでいて、その闇の中にうつつともつかない、濁った血で結ばれ合った人々がうごめきつづけ、終末に至って壮絶な炎によってそのいっさいが焼き尽くされてしまう。一方、『鈍色幻視行』は、『夜果つるところ』が因縁となって、その物語の映画化の試みが次々と失敗して人が死んでいくという、もう一つの物語、メタ=物語が語られる。原=物語の因果に祟られた人たちが一箇所に集まって、そこにさまざまな化学反応が引き起こされる。原=物語とメタ=物語という、次元を異にするこの二冊をぶっ違いに組み合わせるという仕掛けが実に面白かった。ここにはある意味で、物語から物語が生まれていくという恩田さんの小説作法が凝縮されているような印象を受けます。
恩田 ありがとうございます。
松浦 恩田さんの『土曜日は灰色の馬』というエッセイ集に、“おはなしの神様”という言葉が出てくるじゃないですか。恩田さんは“おはなしの神様”に愛された人なんですよね。
恩田 だといいんですが。
松浦 そういう恩田さんの「おはなし宇宙」の雛型みたいなものが、この二冊の組み合わさったところに立ち現れてくるのかなと思いました。ぶっ違いとか組み合わさるといった言い方より、表と裏と言ったほうがいいかもしれないけど、ただしメビウスの輪のように表から裏へ、裏から表へ、絶えず還流が起こるという構造になっている。
恩田 確かにジャンル的にはミステリやホラーなどいろいろな要素が入っていて、集大成みたいな部分はあります。メタフィクションが好きで、一度丸ごとやってみたかったので、今回実現できて非常に嬉しいです。
松浦 最初は『鈍色幻視行』の連載から始まったんですよね。
恩田 そうです。連載を始めて、途中に作中作となる『夜果つるところ』の冒頭部分が出てくるんですが、そこを書いて少ししてから、作中作を先に書いたほうがいいなと思ったんです。それで連載を中断して、『夜果つるところ』を書いてから、連載を再開したという経緯です。
松浦 本当は『鈍色幻視行』だけでも十分だったかもしれない。『夜果つるところ』はこの世に実在せず、読者の想像に委ねるだけということでも、それはそれで面白かったでしょう。しかし、遡ってその原=物語までをも、同じ作者が書いてしまった。そこまでやるかという感じがありました。
恩田 でも『夜果つるところ』は、要するに飯合梓になりきって書いたので、私が書いたら全然違う話になったと思います。タイトルも別のものになっていただろうし。自分だったらここまでベタな話は書かないなと。
松浦 なり代わって書いたんですね。しかし、僕はそのベタさ加減を愛してしまったんです。おどろおどろしさの極みが追求されているじゃないですか。
恩田 いえ、もう少しぺダンティックで衒学的な雰囲気を出したかったのですが、結局そうならなかったのは、私のせいなのか、飯合梓のせいなのか、わかりません。『鈍色幻視行』にも書きましたが、たとえば横溝正史の小説はものすごく古めかしくておどろおどろしい作品だと思っていましたが、今読み直してみるとむしろモダンな都会小説っぽい。だから、読んだ時期で小説のイメージは変わると改めて思いました。
松浦 僕は中学生の頃「推理小説研究会」というのに入っていたんです。横溝は当時、『本陣殺人事件』『蝶々殺人事件』『獄門島』をはじめ、ひと通り読みましたが、まあ土俗的な怪異譚という印象でしたね。そのイメージのまま固まっているのですが、たしかに今再読すると違う印象になってくるかもしれません。