「足搔きながら言葉を紡ぐ」田中慎弥×宇佐見りん『流れる島と海の怪物』刊行記念対談_3

言葉は怖いもの

宇佐見 田中さんの小説の感想に移らせてください。この『流れる島と海の怪物』を二十ページほど拝読した時点で、あまりに面白くて他誌の担当編集者さんに思わず、これはすごい、絶対に読まれなければならない作品です、とメールを送ったほどに興奮しました。とくに小説を書いている人間として驚かされたのは、細部を描く際の順序です。例えば、小説の前半には、作中の舞台である下関と北九州市を隔てる関門海峡に浮かぶ不思議な島から、本州へやってきた仕出し屋の青年の逸話が語られています。彼は巧みな配達技術で地域の名物となるのですが、ある日、突然倒れ、そのまま死んでしまう。その描写にあたって、まず、配達している空の器の塔が崩れた音について書かれ、それから誰かに呼び止められて彼が倒れたことが語られる。そして、遺体には傷が走っていたことが告げられ、彼が島の住民であるがゆえに差別を受けていたことが明かされる。この語りの順番に小説家としての技術を感じて、学びになったというか。
田中 確かに、そこはずらして書いた自覚はありますね。
宇佐見 わざと逆転して書いている部分があちこちにあって、見つけるたびに新鮮な驚きを覚えました。他にも、主人公の慎一と仲睦まじい関係にあった、やはり島にルーツを持つ姉妹の朱音(あかね)と朱里(あかり)が、父親でもある、慎一たちの住む街の有力者の古坂山源伊知(げんいち)に家へ乗り込まれ、酷い目にあわされる場面。源伊知に殺意を覚えた妹の朱里が咄嗟にソファーを持ち上げようとする。彼女は、重くてなかなか動かせないと感じた段階で、ようやくそれがソファーだと気づいたと言います。些細な場面ですがここでも順序が巧く反転されていて、リアリティがありました。
 細部だけでなく、小説の作り方にも驚かされました。小説はファウルフライを捕球しようとして亡くなった父親を思い出す慎一が、「それがもしセンターフライだったら何事も起らなかったかもしれない」と考える場面から始まります。そこから、福岡県の小倉には原爆が落とされる計画があったものの、天候が悪く落とされなかった、そのことは偶然なのか必然なのか、と語られる。その繫ぎ方が面白くて、全然違う話をしているんだけど、語られていることが大きくなったり小さくなったりして、いろんな話がザーッと勢いよく進み、さらに読んでいくと、後年、作家になった慎一と朱里がメタ的に出来事を語る会話文が挟まれる。朱里の言葉は女性として共感するものもあれば、小説家に対する厳しい意見として、ひやっとさせられるものもあります。田中さんは『宰相A』もそうですが、作家が出てくる小説をよく書かれますね。小説には、物語が一次元的に書かれている小説と、物語の物語が書かれている小説があると思います。後者の場合、物語の物語を描こうとすると、合わせ鏡みたいに、物語の物語の物語の……となって、前者とはだいぶ異なる作品になるはずです。田中さんが小説に作家を登場させるきっかけは何だったのでしょうか?
田中 第一に、苦肉の策だったという事情があります。どんどん書くことが狭まってきて、自分でも作家としてなかなか難しいところに来たな、と感じていたりします。それと、今、これだけSNSとかAIとかが社会を賑わしているでしょう。そんななかで私は手書きでカリカリと文章を書いて発表するということをしている。でも、書くという行為において、それでいいのか、という思いが自分にあるんです。極端に言うと、AIを使って書くほうが誠実だと思われる世界が目の前に来てるんじゃないか。そんななかで作家とはどういう位置付けをされるのか。そう考えながら私は作家として足搔いているんです。
 でも、大きな世界で一人、なんでだ、なんでだよってジタバタする姿を描くのが小説なんだと、どこかで思ってもいます。だから、本当はもっと完全なフィクションを描かなきゃいけないのはわかっていながら、自分という存在を小説から切り離せていないんです。これでいいわけがないとわかっていながら、そう書かざるを得ない自分がいる。だから、あまりメタとかそういう難しいことを考えて書こうとしているわけではないんです。作家として足搔くと言いましたが、私には言葉を生み出しているという感覚はありません。皮膚を切れば血が出てくるのとは違って、言葉は自然に出てくるものじゃない。私にはどこか言葉が借り物のように思える感覚があるんですよ。
宇佐見 自然に出てくるわけではない、借り物のようだというのは、言語化したことはありませんでしたが、わかります。生み出すという感覚は全くなくて、言葉が湧き出てくるように文章を書ける人が羨ましいです。私は書きながら、自分のなかで言葉をひたすらジャッジしている感じがあります。正しい、正しくない、つまらない、みたいに。だから、私は言葉をうまく扱える人間ではないと自分では思っています。時間もかかりますし。
田中 私は原稿用紙で百枚ほどの作品を書くのに、二百枚ぐらい書いて、半分捨てたりします。私にとっては書き足すよりも、捨てていくほうが大事でして。文章っていろんなものがくっついていますから、捨てなきゃどうしようもないところがあります。作家というのは言葉を怖がりながら仕事をするものだと思うし、同時に、切るところは切っちまえ、と野蛮な大鉈を振るわなきゃいけなかったりもする。先輩の作家から、筆が乗ってきたら一度止めたほうがいいと言われたことがありますが、その通りだと痛感しています。
 言葉は怖いものなんです。人を簡単に傷つけることができるし。それぐらい危険なものを扱っているんだという意識を持ちながら、作家は文章を書いていく必要があると私は思っています。さっきもAIの話をしましたが、言葉は誰でも使えるわけです。人間じゃなくても言葉を扱える、そんな時代になりました。私たち作家は、そんななかで書くことをし続けなきゃいけないわけだけど、それがうまく行かなくなる恐れもある。そういう不安を抱えながらやっていくしかないと私は思っています。

小説の終わらせ方

田中 先ほど宇佐見さんは終わりを決めて書くとおっしゃいましたが、私は毎回、終わり方がなかなか見つからないんです。終わりを決めてそこへ持っていくという方法も、なるほど、ありだなと思うんですが、私は書きながらこの辺りかなという具合にしか終わらせられない。あるいは、終わりの場面を書きながら、いや、この何行か前で終わらせたほうがいいんじゃないかと考えることもよくあります。始まり方も同じでいつも迷う。今度の小説も書き出しがいやらしい感じになっちゃって。
宇佐見 そうですか? 私はむしろすごく好きでした、あの書き出し。一行目からぐっと仕掛けている感じが伝わってくる、と言いますか。
田中 ええ。その感じがベタベタに出ている一行になってるでしょう。とりあえずそんな一行を置けば後から何かが出てくるんじゃないかと思って書いたのですが。毎回、小説の始めと終わりには頭を悩ませてしまいます。私は川端康成が好きなんですけど、終わってないんですよね、川端の小説って。
宇佐見 そうですね。わかります。
田中 ここで終わるのか、みたいな切り方がされています。それでいて投げやりでもない。特に『山の音』や『千羽鶴』なんかは、どこで終わってもいいような最後ですよね。さあ終わりですよと思わせることもなく、この後がまだありそうなところですっと消えていく。まるで未完であるかのような終わらせ方をするのが川端の得意技なんです。それが理想だとは言わないけど、はい、終わりました、みたいな大団円でケリをつけるのはどうだろうとは思ってしまいます。
宇佐見 私も『山の音』はとても好きな作品です。すーっと始まっていってしまうから、摑みどころがない。私はいつも小説を読むときは、どこを学べるだろうか、活かせるか、みたいなことを卑しくも考えてしまうのですが、あの作品は能の場面などをはじめ素晴らしい場面がたくさんあり過ぎて、どこがどう出来ているのか、まるでわからない。わからないうちに終わってしまった、そんな読後感だったのを覚えています。
 田中さんは終わり方がわからないとおっしゃいますが、私は田中さんの短編の「蛹」の終わり方が素晴らしいと思っています。サッと切れて、唸ってしまうようなラスト。組み立てからして当然、「山椒魚」など踏まえているのだろうなと思いながら読み始めたのですが、ラストの驚きと哀愁は、独自の、田中さんにしか出せないものだと感じました。一文が長く殆ど改行もなく畳みかける文章は軍記ものの調子に似て面白く、かつ「虫」の視点であるので何を書いてあるのか予想がつかない、出てくるものや光景に人間はなじみがないので逐一文章から想像するしかなく、先が見通せないというのも、愉快な読書体験でした。その長くテンポのよい文章を、例えば「天に近い高みにいたとは思えないくらい死が板についていた」というように鮮やかに締める。あちこちに線を引きたくなるほど見事だと感じます。父が生まれながらに不在で、母への悲しみのにじんだ視線があり、視点人物(昆虫)がこもりがちになるという、田中さんの小説を何作か読んでいる者にとっては少し覚えのある構成が、よりリアルから離れた形での変奏となっていることで、読者側が型にあてはめずに正面から新鮮にその感情と向き合えると感じました。例えば「ひきこもり」という言葉で規定してしまわれることが多いなかで、半分土に埋まっている母の死骸を見て土のなかに戻りたくなる感覚は虫そのものの皮膚感覚からして納得できますし、「もう知っている」ものではないと、つきつけられたような作品でした。人間社会のいろいろな文脈にあてはめて考えることができる一方で、人間世界と完全に対応しているわけではなく、虫ならではの生命観や感覚もあるのが、この作品の面白さだと思います。
田中 ありがとうございます。逆に始まりの好きな作品にはどんなものがありますか?
宇佐見 始まりが好きな作品は、中上健次の『岬』です。もう何度も、声に出したかわかりません。「地虫が鳴き始めていた。耳をそばだてるとかすかに聞こえるほどだった。耳鳴りのようにも思えた。これから夜を通して、地虫は鳴きつづける。彼は、夜の、冷えた土のにおいを想った。」地虫の鳴く音が聞こえてくるところから始まっているのが、舞台の幕が上がったあとに入ってくるSEのようで、いいなと思います。自分がそう書いているかはさておいて、いきなり衝撃的な文章で始まるよりは、音から始まっていく作品のほうが好きかもしれません。ただ、新人なのもあって、自分の作品のことになると一行目で読んでもらえるかどうかを気にしてしまいます。読んでくれる方が増えるまでは、一行目で閉じられたら、もうあとがないというか。
田中 最近は一行目で摑まなければならないんですよね。一行目でわかるわけなんてないのに。映画も同じで、最初から思いっきりやらないといけない。
宇佐見 本当は宮本輝さんの作品みたいに始めたい気持ちがあるんです。宮本さんの初期三部作のように情景から入っていけるような作品は本当に素敵だな、と思いつつ、どうしてもいろいろ考えてしまいますね。