他の人とは違った特性を持つマイノリティ当事者が、この現代社会を生きるには、さまざまな障壁が存在する。そのため、そんな困難な人生を歩んでほしくないと思うあまりに、診断結果を否定してしまうのだろう。

しかし、阪本さんの言う通り、APDであることがわかったからといって、そこで人生が終わるわけではない。原因がわかれば、次にそれをフォローしていく手段を考えればいい。むしろ、それまで正体不明だったものに名前がつくことで、やっと自分自身を知ることができ、人生がはじまるとも考えられる。

「わたしね、左利きだったんですよ」

阪本さんが目の前で左手をユラユラさせた。「わたしが子どもの頃、一九七〇年代なんて、左利きはあり得ないとされていました。小学校に入ると左利きの子たちが教卓の前に座らされて、左で鉛筆を持つと長い定規で手を叩かれる。『右で書きなさい!』って矯正されるんです。そのまま右で文字を書けるようにはなったけど、お箸は左手のままで。結局、どっちつかずになっちゃいました。

でも現代は左利きを無理に矯正しようとはしないですよね。わたしからするとそれが羨ましくもあるんだけど、社会ってこうやって変化していくものなんだなとも感じるんです。電車の自動改札機って、切符の投入口が右側にしかついていませんよね? あれって右利きの人しか想定していないってことです。だからわたしからすると、非常に使いにくい。でもね、阪急電車はその投入口を左手でも入れやすいように傾けてくれたんですよ。とても感動しましたし、ありがたかった。そうやって社会があらゆる人に寄り添えたら、みんなが楽に生きられますよね」

誰もが生きやすい社会がやって来れば、「うちの子を障害者にしないでほしい」と訴える親の気持ちも変わるかもしれない。だってそのときには、そもそも「障害者」という概念すらなくなっているかもしれないのだから。

「そのための第一歩としてまずは、自分の身近にもAPD当事者がいるかもしれないってことを知ってもらいたい。APDは見た目ではわからないから、困っているようにも見えない。でもぱっと見ではわからないけれど、本当は困りごとを抱えている人がいる。そこを知ってもらえると当事者の生きづらさも少しは緩和されるんじゃないかな、と思います」

阪本さんの奮闘はまだまだ終わらない。
でもそれが近い将来、大きな実りになる予感がした。

#1「電話越し、人混みで…人の言葉が聞き取れなくなる障害『APD/LiD』とは」はこちらから

『隣の聞き取れないひと APD/LiDをめぐる聴き取りの記録』
五十嵐 大 
APDの診断ガイドラインを作りたい。専門医が語る当事者の声とAPD普及・研究を行う理由_1
2022/12/12
1,760円
208ページ
ISBN:978-4798175324
みんなの言葉が、聞こえるのに聞き取れない。
ずっと、自分が悪いんだろうなと思っていた。


ある晩、著者のもとに一通のメッセージが届く。
「APDで悩む当事者たちのことを書いてくれませんか?」

聴力には異常がないにもかかわらず、うるさい場所や複数人が集まる場などでは相手の言葉が聞き取れなくなってしまう――。「APD/LiD」と呼ばれ近年注目を集める、この目に見えない困難について、自身もマイノリティ経験を持つ著者が当事者や支援者、研究者やメディア等へ丁寧な聴き取りを行い、「誰一人取り残さない社会」の実現に向けて社会に求められる変化を問う。渾身のノンフィクション。

【著者について】
五十嵐大(いがらし・だい)1983年、宮城県出身。元ヤクザの祖父、宗教信者の祖母、耳の聴こえない両親のもとで育つ。高校卒業後上京し、ライター業界へ。2015年よりフリーライターとして活躍。著書に、家族との複雑な関係を描いたエッセイ『しくじり家族』(CCCメディアハウス)、コーダとしての体験を綴った『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎)など。2022年、『エフィラは泳ぎ出せない』(東京創元社)で小説家デビュー。Twitter:@daigarashi

【目次】
第一章 聞こえるのに、聞き取れない
第二章 治療法がないなかで
第三章 「名前がつく」ということ
第四章 社会に働きかける当事者
第五章 当事者の隣で

【APDとは】
聴力に問題はないにもかかわらず、特定の状況下で聞き取れなくなってしまう困難のこと。Auditory Processing Disorderの略称であり、日本語では「聴覚情報処理障害」と訳される。 APDを理由に人間関係が壊れたり、仕事を辞めざる得ない状況にまで追い込まれてしまったりする当事者は多いが、国内での認知はまだ低く、その訴えはなかなか理解されない。近年では「聞き取り困難(症)」を意味するLiDと呼ばれることもある。
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