「ひとりで死ね」という報道

――一連の事件に対するメディアの報道のあり方も、社会や市民に与える影響が大きいですよね。

川崎殺傷事件が起こった際にニュースやワイドショーのコメンテーターが盛んに言ったのは、「ひとりで死ね」ということでした。この事件はいわゆる拡大自殺だとも評されましたが、他人を巻き込むぐらいなら「ひとりで死ね」と。

反射的な怒りの言葉としては理解できますが、それは事件と社会背景とを切断、犯人の自己責任とすることで、事件の要因から目を背けるロジックでもあります。
被害当事者やその関係者ではない人々は、むしろ、社会背景にこそ目を凝らすべきではないか――というのが、『令和元年のテロリズム』で一連の事件をテロと捉えた理由でした。

犯罪心理学では、事件は個人的な資質や社会背景をはじめ、多様な事柄が複雑に絡み合って起こるのであって、どれかひとつだけに要因を見出すことは間違っているといわれています。一方で、日本では事件の社会背景に関する議論が欠けていると思うのです。

――かつて、まだ自己責任という言葉が流布していなかった時代に日本で起こったテロ、あるいは、それに準じる事件は、常に社会背景と密接に結びつけて語られていました。

『令和元年のテロリズム』では、従来の定義ではテロではない事件をあえてテロとして捉えることで見えてくるものについて書こうとした……という話をしてきましたが、別の言い方をすると、それこそが現代的なテロだとも思うんです。

日本におけるテロというと、第二次世界大戦前の二・二六事件(1936年)に至るまでの暗殺やクーデター、あるいは1970年代に新左翼が起こした一連の事件を思い浮かべる人が多いと思うのですが、そこでは反権力という形で敵が明確なわけですよね。
 
特に、大正から昭和にかけてのテロを起こした首謀者たちの中には、困窮する市民を代弁する世直し的な思想を持って、政治家や財閥を標的にしたものも多くあったんです。

あさま山荘事件以降は社会運動が沈静化し、いわゆる政治離れが進んでいきました。とはいえ、社会の諸問題が解決するわけではないので、「自分は苦しんでいるが、それが誰のせいなのか分からない」というふうに〝敵〟がわからず、市民の苦しみや怒りが宙吊りの状態になる。

川崎殺傷事件のような無差別殺傷事件は、〝敵〟がわからない中で、その苦しみや怒りが一般人に向かっているようなところがあるのではないか。

対して、安倍元首相銃撃事件は、現役の首相ではありませんが、現在の日本における権力者としてシンボリックな存在であることは間違いなかった安倍晋三氏に対して銃口が向けられるという、テロとして実にシンプルな構図に、まず、衝撃を受けました。

果たしてこれをどう捉えればいいのかと。
歴史の特異点なのか、転換点なのか。

#2 「〝社会的弱者の男性〟が抱える〝上級国民〟に対する憤り」へ続く

写真/共同通信・写真:ZUMA Press/アフロ