「投票に行く」ことの真のコストとは?

経済学が予想するように人間が合理的ならば、無価値なことのためにわざわざ投票所に行くはずはない。だが実際には、1990年までは国政選挙の投票率は7割程度を維持していたし、それ以降はかなり下がったものの、それでも有権者の半分は投票に行っている。

このことは、「合理的経済人」という経済学の前提が間違っている例としてよく挙げられるが、はたしてそうだろうか。

学校では「投票は国民の義務」と教えられ、社会人になれば(あるいは大学生でも)「選挙に行った?」と訊かれる機会は増える。民主的な社会では、「選挙に行かなければならない」という(かなり強い)同調圧力がかかっている。

もちろん、行っていないのに「行きました」と答えることはできるが、ウソをつくのは気分が悪いだろう。だったら、投票してすっきりしたいと思わないだろうか。日曜に出かけるついでに近所の投票所に立ち寄るだけなら、じつはコストはそれほど大きくない。同調圧力に対処するためにささやかな負担をする人が半分いることは、不思議でも何でもない。

だとしたら、真のコストはどこにあるのか。それは、候補者の詳細な情報を入手・検討し、誰に投票するかを決めることだ。

正しい投票のためには、自分がどのような政治を望んでいて、それに対して現状がどれほどかけ離れていて(あるいはうまくいっていて)、各候補者が掲げる政策がどのような影響を与えるのかを知る必要がある。「価値はほぼゼロ」なのに、こんな面倒なことをする人がいるだろうか(少なくとも私はやらない)。