共に助け合うための「われわれ意識」すらない、今の日本社会
西村 SNSでは、昨年同様に医療関係者や疾患当事者、野党議員などがこの話題を熱心にポストしていたように思うのですが、その一方でとにかく高市政権を罵りたい、いわゆる「左派」系インフルエンサーのデマゴーグたちが、事実を歪曲してでも刺激の強い言葉をつなぎ合わせて事実であるかのように煽動し、それがどんどん拡散されてゆく。
デマでも何でもいいから「高市政権反対!」と言えるものなら何でも利用する、というありかたは、本人たちの溜飲を下げるのかもしれないけれども、主張の正当性や信頼性を損ねるし、問題の所在をかえって曖昧にしてしまいますよね。
綿野 要するに、国会の場で野党が頑張って質問や指摘をしていたけれども、まったく話を聞こうとしない政権の態度がある。確かにそれは国会における熟議や議論を軽視していて、非常に問題がある。
でも、その一方で、外野のSNSで、政権を批判したいがあまりにデマやフェイクでもなんでも持ち出す人がいる。その人たちは、まさに自分たちが理性的な議論をするための土台をぶっ壊していることに気づいていない。まさに「真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」ですね。
ただ、SNSを見ていて気になるのは、現役世代VS高齢者という世代間対立が強まっていることです。近頃の選挙でも「現役世代の手取りを増やす」という言葉で国民民主党が支持を伸ばし、維新が「社会保険料負担を下げる」と主張していましたよね。
高額療養費制度には、高齢者外来特例など高齢者が対象になっている部分もある。また、そもそも見直しに手をつけたのは、現役世代に向けた子育て支援の財源を手っ取り早く確保するためだった、と本書でも指摘されています。
見直しが強引に進められた背景には、こうした世代間対立があるのではないでしょうか。『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(朝日文庫)を増補した際に、「福祉排外主義」の問題を指摘しました。社会保障などは「Aから持ってきたお金をBに配る」というゼロサムゲームです。
だから、絶対に揉めます。当時は参政党がすごく躍進していたので、経済的な再分配を求める議論が、外国人や移民を排斥する福祉排外主義に転んでしまうのではないか、と恐れていました。
ただ、今回の議論を見ると、そういったナショナリズム以前の問題、共に助け合うような「われわれ意識」さえ欠いているのが、いまの日本社会だと思いました。つまり「現役世代VS高齢者」という対立、いやもっと露骨にいうと「現役世代VS病人」を対立させる政策を政府は推し進めているわけです。
「金のない病人は死ね!」みたいな政策を進めておきながら、「持続可能性」という大義名分で糊塗しているのはとても恐ろしさを感じます。
西村 誰もが反対しない、なんだかよくわからないけども正論のように見える言葉。
綿野 持続可能にしたいのであれば、その方法を皆で考えましょう、という議論が始まるはずなのに。「社会保険料の負担が軽減されます。現役世代のみなさん、よかったですね」という話で終わってしまう。
確認しておきたいのですが、「保険料が一人あたりいくら減ります」ということは、企業側も負担が減るということなんですか?
西村 そうですね。労使で保険料を分けて負担している健保組合や協会けんぽだと、そういうことになります。
綿野 なるほど。つまり、今回の見直しには「現役世代の負担ではなく、企業側の負担を減らしたい」という本音があるのかもしれませんね。たしかにそれを支持するメンタリティは広がっていますね。「なぜこいつらの保険料を負担しなきゃいけないんだ」と文句を言っている経営者もSNSでよく見かけます。キラキラしたスタートアップ企業も、社会保険料を払わなくていいように、労働者を雇用せずに業務委託していますし。
維新の議員の国保逃れなどを見ても「制度の穴をついていかに負担を逃れるか」というハックの対象でしかない。となれば、もはや「病人VS経済」みたいな対立になっているのかもしれない。
西村 社会保険料負担は限界だと言って煽っておきながら、じつは企業負担分を削減するというロジックもそうなんですが、そうやって保険料負担を削ることで保険給付がどんな形で削られることになるのか、という面を見ないから、それがあたかも小利巧なライフハックのように考えられてしまうんでしょうね。
たとえば最近では、乳幼児の脊髄性筋萎縮症を根本的に治療すると言われるゾルゲンスマが1億数千万円で、3〜7歳のデュシエンヌ型筋ジストロフィー治療薬エレビジスは3億500万円で保険適用されたことが話題になりました。そのような高額薬剤でも、若い命を救ってその子たちが将来に希望をいだいて生きてゆけるのであれば、その薬剤のために一人あたりの保険料が数百円かかっても全然かまわない、と答える人がじつは圧倒的に多いと思うんですよ。
これらの薬剤が話題になったときのSNSの反応を見ていると、少なくとも保険料負担に肯定的な声のほうが多かったと記憶しています。
綿野 そうした声の広がりには僕も希望を感じます。でも、意地悪な見方をすると、か弱い子供だから共感されている、とも思うんですね。そうした共感をベースにしてしまうと「共感できない人は助けるべきでない」という話になりはしないか。とんでもない不摂生で病気をしたり、無謀な運転で大怪我したりした人は「自己責任」みたいな。
社会保険は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というある種のコミュニズムの実践です。不合理で間違った選択をした人も支えなきゃいけない。そのためには、もう少ししっかりとした「ナショナリズム」が必要だと思うんですよ。正確にいえば、日本の医療保険制度は保険料を払っている人なら誰でも利用できるので、日本で暮らす人々の「われわれ意識」が必要ではないか、と。
こうした「われわれ意識」は民主主義の基本です。でも、近年は資本主義に掘り崩されているように思えます。思想的にいうと、資本主義と民主主義はそんなに相性が良くありません。資本主義は貧富の差をつくって、イーロン・マスクみたいな大富豪を生み出します。一方で、民主主義は「多数派の専制」になりやすく、「こいつの財産を没収して、みんなで配ろうぜ」と重税を課したり、極端な場合は革命を起こします。
ただ、例外的に、戦後の高度経済成長は、資本主義と民主主義の「結婚」が起きたと言います。経済成長で多くの労働者がその恩恵に預かり、福祉国家として社会福祉が充実したからです。国民皆保険もそうですし、高額療養費制度も1973年、田中角栄が首相で福祉元年と言われた年です。資本主義と民主主義がうまく両立できた時代の産物です。
でも、同年のオイルショックでその結婚は破綻を迎えて、いまに至るわけです。確かに制度としては残っているけれど、その制度を支える精神的な土壌は資本主義的な利己主義で掘り崩されている。
『高額療養費制度 ひろがる日本の健康格差』の中では、今の高額療養費制度の問題は新自由主義的な小泉純一郎政権の2001年に始まった、と書かれていますが……。
西村 それまで自己負担上限額は低所得層を除いて収入にかかわらず同一金額でしたが、応能負担という考え方が導入されて所得区分ごとに負担金額に差をつけるようになったのが、その年です(註:厳密には、この方針が決定したのは2000年の第二次森喜朗内閣時)。
綿野 小泉さんの時代は、官僚や郵政を「抵抗勢力」と名指しして派手な政治的イシューで構造改革という新自由主義化を押し進めました。そうした熱狂に推し流れてしまいましたが、敵と味方の対立軸ははっきりしていた。別の意味では戦いやすかったとも言える。でも、今回の見直し案などは、「持続可能性」や「セーフティネットを守る」など美辞麗句を並べられて、あたかも政治的な問題でないかのようにされてしまったわけですね。














