「AIに丸投げ」という批判もー炎上を経て私が使い続ける理由
先日、私たち家族がテレビ番組で「家庭で生成AIを活用している家族」として取り上げられた。
制作チームはとても丁寧で、誠実に取材してくださった。番組では、子どもと一緒にAIでぬり絵を作ったり、献立を相談したりといった日常が紹介された。
特別なことをしているつもりはなく、ただ新しい道具を使って、子どもたちとの時間をもっと豊かにしようとしているだけだった。でも、放送後に起きたことは、想像を超えていた。
番組が流れたその夜から、SNS上にさまざまな反応が寄せられた。賛否が分かれるテーマだろうなという覚悟はしていた。私が想像していたのは「価値観の違い」から来る意見や、「こういう視点もあるのでは?」という問いかけ。
でも、目に入ってきた言葉の多くは、そういう類のものではなかった。
「AIに子育てを丸投げしている」「親失格」——私たちの人格そのものを否定するような言葉。実際にどれだけの人がそう思っていたのかはわからない。声の大きな少数だったのかもしれない。
けれども、一度読んでしまった言葉は、頭の中で何度も再生される。「子どもたちに取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない」——自分の中にあった小さな信念が、揺らいでいくのを感じた。
正直に言うと、しばらくの間、何もかも投げ出したくなった。SNSを見るのが怖くて、発信を続ける意味がわからなくなった。「もうこれ以上、誰にも何も言われたくない」という気持ちが、ずっと頭の中をぐるぐる回っていた。
「AIを使うこと」と「丸投げ」は違う
少し時間が経ってから、冷静に考えてみた。批判の中には、耳を傾けるべきものもあったと思う。たとえば「子どもが自分で考える機会を奪っているのでは」という指摘があった。
これは正直、私自身も気をつけていることだ。AIが答えを出してくれるからといって、子ども自身が試行錯誤するプロセスを省略してしまったら、それは確かに問題だと思う。
ただ、「AIを使っている」というだけで「丸投げ」と受けとられてしまうことには、少し立ち止まって考えたい。
AIを使って献立を考えることは、料理本やレシピサイトを見ることと、何が同じで、何が違うのだろう。
AIと一緒に調べ学習をすることは、図書館で本を探すことと、どこが決定的に異なるのだろう。
もちろん、AIには「答えがすぐ出る」という特性があって、そこに依存しすぎるリスクはある。調べるプロセス自体に学びがあるのに、それを飛ばしてしまう危険性。その懸念は、私も理解できる。
でも、道具の存在そのものが問題なのではなく、使い方の問題なのではないかと思う。「AIを使う=思考停止」ではなく、どう組み込むかによって学びは奪われることも、深まることもある。













