共感ベースの社会で孤立する人々
青木 「種まき」をやめるから「負の連鎖」に陥るという内田さんの憤り、まったく同感です。新聞社やテレビ局が手がけてきたさまざまな文化事業は、営利企業ではあるけれど「報道機関」を自称して公共性も併せ持つメディアとして、もうかったカネで読者、市民に何事かを還元するという意味も込められていたはずです。
ところが、まさに貧すれば鈍すというべきか、経営的な苦境に立つと真っ先にそこから切り捨ててしまう。肝腎要の取材網や取材態勢にも同じようなことが起きています。もちろん部数減による経営的な苦境が深刻なのは事実で、たとえば朝日もかつては発行部数が800万部だったのに最近はついに400万部も切って……。
内田 僕が朝日新聞の紙面審議委員をしていた2012年頃で毎年5万部減でした。「大丈夫ですか」って訊いたら「800万部がゼロになるまで160年かかりますから、心配要りません」と笑われました。それがわずか10年ちょっとで500万部減らした。
青木 グーテンベルク以来ともいわれるメディア環境の激変期、これは新聞に限らず、旧来の紙媒体が苦境に陥っていくのはやむを得ないのでしょう。それでも、紙の部数減がデジタルに置き換わっていくなら、それはそれで問題はない。ところがそうはなっていない。再び朝日を例にとれば、全盛期から500万部近くも部数を激減させたにもかかわらず、デジタルの有料購読者は数十万人にとどまっているようです。
これは雑誌媒体も同様で、「文春砲」などと呼ばれて気を吐いているようにみえる週刊文春も部数減に歯止めがかからず、紙の週刊誌はすでに赤字。ところが、ここでもデジタル購読者の増加率はまったくそれに追いついていないそうです。つまり「文春砲」もいつまで持続可能かわからない。
もちろん、旧来の新聞、雑誌、テレビといったメディアが十全の役割を果たしてきたといえないのは、内田さんも指摘された通りです。しかし一方、取材によって得たファクトを正確に広く伝える、新聞でいえば何百万という人々に伝え、一定程度は届き、誰もが望めば活字で1日のニュースを追うことができるような機能が眼前で崩れ落ちている。しかもこれはまだ過渡期であって、状況はますます悪化し、さらに朽ちていくでしょう。
一方で、新聞や雑誌に代わって多少なりとも真っ当なジャーナリズム機能を担う新メディアがネット空間上に出現する気配も日本は極度に薄い。要するに、ジャーナリズム機能そのものが壊れかけている。
内田 壊れていますね。新聞を取っていた時代は、産経新聞から赤旗まで、誰もが何か新聞をとっていた。自分と意見の合う新聞ですね。それぞれの新聞ごとに論説の論調は違うんだけれど、少なくとも事実関係に関しては異同がなかった。何が起きたかについては、とりあえず国民全体がベースを共有していた。それを判断するか、どう解釈するかについては新聞ごとに違いがある。それは当然ですけれど、事実関係については、その存否について意見が違うということはなかった。コミュニケーションのための国民的なプラットフォームがあった。
僕が小学生の頃、うちは「文藝春秋」と「週刊朝日」と朝日新聞を取っていたんです。僕は子供でしたが、一応それ全部に目を通していた。そうすると、テレビのクイズ番組にほぼ全問正解できるんですよ(笑)。朝日新聞と「週刊朝日」と「文藝春秋」読んでいるとクイズ番組に全問正解できるということは、今の世の中で起きていることについての情報がこれくらいのサイズに収まっていたわけです。
でも今の子供はいきなりネットに入る。そうすると情報が小さなサイズに収まるということがない。どんどん拡散してゆく。拡散して、どこかネットの迷路の中で「エコー・チェンバー」に入り込んでしまう。だから、そこで1日10時間ネットで動画を見たりニュースをフォローしている子でもクイズ番組に出しても、たぶん1問も答えられないでしょう。そのくらいに「生きてゆく上で必要な情報」と「要らない情報」の間の程度の差がなくなってしまった。
新聞やテレビが主要なメディアだった時代は、学校に行けば、昨日の夜見たドラマやバラエティの話ができたけれど、そういう広いプラットフォームがもう今はなくなった。子供たちはみんなばらばらなものを見ている。自分がどういうふうに情報を摂取して、何を知っていて、何を知らないのかについて、子供たちはもう情報を共有していない。話が通じない。周りにいる実在の人間たちとは話が通じなくなって、逆にネット上のヴァーチャルな人たちとは話が通じる。そういう社会的孤立がネットで生産されている。
青木 かつてマスメディアと呼ばれた新聞、雑誌、メディアは、ある意味で人々や社会を統合するプラットフォームとして機能していた面もあったと。
内田 中間共同体として機能していたと思います。
青木 それが壊れ、朽ちかけている。
内田 解体していると思います。特に日本の場合は、もともと「共感と同質性に基づいて共同体を形成する」という社会ですから、話が通じなくなった瞬間に孤立してしまう。契約ベースの社会であれば、理解も共感もできない人とだって協働して価値を生み出すことができるはずなんです。
でも、日本はそういう社会じゃない。共感と同質性に基づいて共同体を形成するから、共感できない人、気持ちが通じない人とは一緒にやれない。理解もできない、共感もできないという人だって、きちんと契約を守り、規律を守るなら、問題なく仕事はできるはずなんです。
僕は共感能力が低い人間ですけど、契約とか規律とか掟とか、そういう外形的なものは理解できるので、それに従って行動する。だから、共感できない、何を考えているかわからない人とでも協働し、共生することができる。共感や同質性なんかなくても別に困らないと思うんです。日本って、その点で共同体の設定そのものが間違っているような気がする。
青木 社会の統合機能ばかりか、人間社会そのものの孤立化と分断も加速度的に進んでいませんか。
内田 今の日本には孤独感を抱えている人がとても多いけれど、それを否定的なことだと感じている。「いや、孤立したって別に構わないんだよ」という言説が少ない。実際にそうなんですから。今、単身で暮らしている人が34パーセントです。2050年にはこれが45パーセントになる。つまり、これからは「孤独であることがデフォルト」になる時代が来るわけです。















