校庭が津波で浸水、避難所の過酷な環境
宮原さんは小学生の頃に市内沿岸部で被災。地震が起きたのは、帰りの会をしているときだった。
「学校の指示でまずは校庭に避難したのですが、すぐに『津波が来る』という話になって。一部の児童は屋上に避難したんですが、学校は“車で逃げられるのなら子どもを引き渡す”という方針だったので、親が車で迎えに来てくれました。
まず祖母と父が来て、学校で私と弟を車で拾った後、少し内陸にある幼稚園で妹を拾い、海から離れた市内の山のほうまで逃げました。母は看護師だったので、被災者の対応に当たってました」(宮原あこ、以下同)
夜になり、一家は避難所の場所を聞くため小学校へ。そこで目にしたのは、津波で浸水した校庭だった。
「私の学校は小高い場所にあったので校庭だけで済みましたが、同じ学区の中学校は1階の中ほどまで津波が来たと聞いてます。より海側では2階の中ほどまで津波が入り、屋上に逃げた人以外は亡くなったと聞いたので、本当に紙一重でした」
そこからは避難所となった教室で生活。幸いにして2日ほどで母の勤務先の看護施設に移れたが、有事には年齢も性別も関係なく、大人を頼ることもできなかった。
「小学生でも自分より年下の子たちの世話をしたり、体育館から備品を運ぶのを手伝わなきゃいけなかったんです。空気的にも『下の子たちも悲しむから、泣いたり悲しんじゃいけない』みたいな感じでした」
看護施設へ移ってから1週間ほどで戻れた自宅も、1階部分は浸水。当時はリソース不足で業者も呼べず、大宮の親戚も含めて泥をかき出し続け、2階で生活を送るようになる。
2階での生活中、しばらく電気はつかず、風呂も近所の家で借りていたという宮原さん。過酷な環境のなか、さらなる追い討ちがかかる。













