10年近い取材で培った信頼関係
内田 よい本でした。まるで小説のようで、一気に読んでしまいました。こんなこと言うのは失礼だけど、「文章うまいなあ」と思って。現場の人に寄り添って書くというのは、対象との距離感が難しいんですよね。
寄り過ぎると息が詰まってくるし、離れ過ぎると、今度は相手の感情のひだが伝わらない。僕は人の文章を読むときの基準を「焦点距離」に置いているんです。対象の皮膚に触れるくらい思い切り寄ったり、中間距離になったり、鳥瞰的に出来事の全体像を一望したり……、文章の上手な人は、そうやって焦点距離を自在に変えることができるんです。
いくら対象になる人物や出来事についての知識があっても、修辞的に巧みでも、同じ焦点距離で延々と書く人の文章を読まされると、だんだん息が詰まってくるんです。読んでいて、快感がない。でも、青木さんの文章は、対象に近づいたり、離れたり、超近距離、中距離、遠距離のバランスが絶妙でした。
息遣いが聞こえるぐらいまで近くに行ったかと思うと、いきなり明治時代からの村の歴史を俯瞰する。飯舘村の日常や風景を、少し距離を置いて客観的に語る。そのつど書き手の対象に対する感情のあり方が違う。焦点距離が変わるたびに文体の温度が変わる。その切り替えが見事だと思いました。
青木 そうおっしゃっていただくと光栄です。一方でジャーナリスティックなルポルタージュには、取材対象への焦点距離を近づけすぎとマズいテーマもあります。僕が以前書いた『安倍三代』(2017年、朝日新聞出版/朝日文庫所収)はその典型でしょう。「一強」と称された政権の主のルーツと実像を批判的に描く以上、対象とは徹底的に距離を置いて客観視し、文章もあくまで客観的な記述が求められる。
批判や論評は加えても、取材で得た事実とは明確に区分けし、取材に応じてくれた人々の証言も、こちらが勝手に解釈したり斟酌することは許されず、証言はそのまま正確に紹介する必要もある。でないと、「それは取材者の思い込みだ」とか「事実を歪曲している」と謗られ、最悪の場合は政権から攻撃を受け、証言者の方々にも迷惑をかけてしまいます。
でも今回のルポルタージュは少し違います。102歳で自死した大久保文雄さんと家族の物語を描くにあたり、主要な証言者となってくれたのは文雄さんの長男の妻である美江子さんでした。その取材には10年近い歳月をかけ、何度も通い詰めて長時間繰り返しお話を聞き、美江子さんとは相当な信頼関係を築けたので、思い切り焦点距離を近づけた描き方をできた。
逆に言えば、それほど時間を費やして信頼関係ができたからこそ、ここまで踏み込んで描いても構わないと思えたんです。
内田 大久保美江子さんのところは、ほとんど小説ですよね。
青木 もちろん、すべての描写は証言に基づいています。ただ、信頼関係を築いたからこそああいう描き方ができたし、また、美江子さんをはじめとする家族に襲いかかった悲劇とその深刻さを読者に伝えるには、できるだけ臨場感のある描き方をするのが最善の方法だろうとも考えました。一方で原発事故当時の政府や東電の動き、さらには事故経緯などについては、もちろん徹底して俯瞰した描き方になるわけですが。
内田 亡くなった大久保文雄さんの弟さんについての話も焦点距離が違いますね。生身の人間と触れている場合と、少し遠景で見る場合と、会ったことのない人の、見たことも聞いたこともない遠い昔の時代の話では、当然ながら文体が変わる。
青木 おっしゃる通りです。直接話を聞けたかどうかでも、もちろん焦点距離や温度感は違ってきます。
内田 小説部分の完成度が高かったのは、取材対象の大久保美江子さんと青木さんの信頼関係があったからなんでしょうね。ルポルタージュで「心の中でこう思った」ということを書いてしまうわけですから、それって、ある意味では越権行為なんだけど、でも読んでいて違和感がない。















