すべての事柄には歴史的文脈がある

内田 飯舘村の大久保家と原発事故、それから戦争。それら全部を含めて百年くらいの時間の幅の近代史を青木さんは書いたわけですよね。でも、それは全部書かなきゃいけないことだったと思います。目の前にある単一の出来事でも、それが何を意味するかを知るためには、背景にある歴史的な文脈を知らなければならない。

今のメディアに対して僕が不満なのは、新聞を読んでも、たしかに事実は報道されているのだけれど、その出来事の意味が分からないという記事がほとんどなんです。その出来事に至る歴史的文脈を記者は書いてくれないんです。ヨーロッパに行っている間は、僕は「ガーディアン」とか「リベラシオン」とか「ル・モンド」とか、そういうクオリティ・ペーパーを読みます。申し訳ないけれど、日本の新聞とは小学生の書いたのと大学院生の書いたものくらいの違いがある。

決定的な違いは、どんな出来事についても、「そもそもこれは」という文脈がしっかり書き込んであるからです。今から何百年前に、遠い遠い国でこんなことがありました……というところから記事が始まる。そういう長大な歴史的文脈の中に置いて、だからこの出来事にはこういう意味があるという書き方をする。それを毎日やる。毎回、しつこく「そもそもこれは」というところから始める。

当然紙面もたくさん使うし、記者自身にも知識や哲学がなければいけない。でも、欧米のクオリティ・ペーパーはそういうものなんです。それに比べると、日本の記事はストレートニュースがただぼんと置いてあるだけなんです。たしかに客観的事実は提示されているんだけれど、意味がわからない。文脈と言ってもせいぜい1週間とかひと月程度で、半世紀、百年という幅で出来事の歴史的な意味を考察するという知的習慣が記者の側にない。

青木さんもきっとその必要性を感じたのだと思います。百年ぐらいの文脈の中でとらえないと、原発事故や飯舘村の一家族の運命の意味がわからない。そのためには対象ごとに焦点距離を変えなければいけない。日本近代150年を俯瞰したときに、一体日本人は何やってきたんだろう。その青木さんの痛みが感情的でない次元にも伏流している気がしました。

青木 はい、おっしゃる通りですし、そうした点について内田さんは、これまでも著作のなかで言及されていますね。新聞を筆頭とする日本のメディアには、たしかに「何が起きたか」は書かれているけれども、その事象が「何を意味するか」、つまりは10年とか百年といった長いスパンの歴史的文脈のなかで事象を俯瞰する記事がほとんどないと。そういう知的習慣に欠けているのが日本のジャーナリズム最大の問題点なのではないかと。

内田 そのことは何度もあちこちで書いています。

青木 先ほども申し上げた通り、僕は通信社の記者を長くやっていたので、ある意味でそれを是としてきた面もあります。解説記事や長文の企画記事などで事象の意味や背景に言及することはあっても、10年とか百年といった長い歴史的文脈のなかで事象そのものを俯瞰する記事は確かに少ない。

というか、記者たちにそれほどの知的蓄積がない。だからという面もあるでしょうし、客観報道という美名に逃げ込んでいる面もあるでしょうが、取材などによって得た情報を読者にぽんと提示し、判断や評価は皆さんに委ねます、というスタイル。もちろんストレートニュースに関しては妙な色付けをしてはならないのがジャーナリズムの原則ではありますが。

内田 ストレートニュースをそれだけ出して、色を付けないという抑制的な態度はジャーナリズムとしては正しいと思います。でも、ストレートニュースというのはただの素材ですから、それだけ出して「あとはよろしく」というのは、読者のリテラシーがよほど高くないと無理なわけです。

ということは、ストレートニュースを提示しただけでも、その意味が理解できるようなリテラシーの高い読者がいなければジャーナリズムは成り立たないということです。そして、リテラシーの高い読者というのはメディアの側が創造するものだと僕は思うんです。メディアがリテラシーの高い読者を育て、そのような読者が満足できるようなクオリティの記事を書く。そういう相互的な関係の中でメディアと読者は育ってゆくものだと僕は思います。

ちょっと話がそれますが、僕は名古屋の朝日カルチャーセンターで、毎年講演してきたんですけれど、この間行ったら、今年(2025年)が名古屋教室の最後だというんです。クローズする理由を聞いたら、「採算が合わないから」ということで、それを聞いて僕は激高したんですよ。

だって文化事業なんて採算が合わないものに決まっているんだから。カルチャーセンターは営利事業じゃないはずです。新聞社がお金を出して、市民の文化的なリテラシーを高める。そうやって質の高い読者を創り出す。そうすれば、紙面のクオリティを上げることができる。いわばカルチャーセンター事業というのは、リテラシーの高い読者を創り出すための「種まき」なわけでしょうと。

新聞社が身銭を切って読者を育て、そのような読者から選ばれる紙面を作る。そういう相互作用なわけじゃないですか。採算が合わないからカルチャーセンターをつぶすというのは負の連鎖でしかない。読者のリテラシーが下がっているなら、それに合わせて紙面の質も下げていく。そういうことをしていればいずれ新聞が読むに耐えないものになるのは当然です。

青木 貧すれば鈍する、ということでしょう。

内田 本当にそうです。僕は新聞にコラムを書くときに、遠い国、遠い時代の話をよく引くんです。何とかして読者に「遠距離から物を見る」という習慣を会得して欲しいので、必死に読者を啓発しているわけです。「啓発って、おまえ、何様のつもりだ」と言われそうですけど、こちらも引っ込むわけにはゆかない。読者に向かって「あなたたち、もうちょっと知識見識をお持ちなさい」と誰かが言わないといけない。それって老人の仕事だと思うんです。若い人がやると反発されるけれど、老人ならそういういささか教化的な態度も許されるということがあるでしょ。

2011年4月福島で102歳の老人が自ら命を絶ったのはなぜか? 新聞を中心に朽ちていく日本のジャーナリズムと、孤立を深める人々_4