秀長、一世一代の大舞台

伊勢侵攻ののち、秀長が参加した作戦は紀州征伐になります。現代の和歌山にあたる紀州の制圧戦です。このときの大将は、甥の秀次でした。秀長は副将に任命されて、太田城攻めなどに参加する。太田城は和歌山の重要な拠点ですが、火薬庫に火がまわって、大爆発を起こして陥落しました。この紀州制圧戦では秀長の家来、藤堂高虎(1556年~1630年)が大活躍しています。

秀長は、紀州を制圧した後に、その功績として秀吉から、紀伊国、大阪南部の和泉国など64万石余の所領を与えられた、ということになっています。ただしこのときも、当時の数字では紀伊国は20万石余。和泉国は10万石余で足しても64万石にはなりません。

ともかくも紀伊国と和泉国をもらい、当時はまだ若山といった和歌山に城を築いて居城とした。その普請奉行を務めたのが藤堂高虎です。城を築いたことで、今の和歌山市が生まれたことを考えると、和歌山県にとって秀長は非常に重要な人物ということになりますね。

写真/shutterstock 写真はイメージです
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そうした秀長に、一世一代の晴れ舞台がやってきました。四国攻めです。紀州征伐のあと、四国で勢力を拡大していた長宗我部元親と戦うのですが、このとき秀長は、総大将として攻め入っています。

自らも阿波に進出したのですが、土佐の長宗我部家の抵抗が激しくて、なかなか侵攻が進まない。心配した秀吉が、「もう少し援軍を送ろうか」と言ってきたところ秀長は「一切いらない。自分たちで降伏させる」と応えました。

この経緯は司馬遼太郎氏が小説で描いていますね。最終的には秀長は、長宗我部元親を降伏させることに成功します。この四国攻めの恩賞として、紀伊国と和泉国に加えて、さらに大和国が加増された。彼は合計三か国を所領とする大大名となり郡山城に入城しました。