移動距離の多さが、天下を制する?

「5日間も淀に泊ろうなどと誰が言ったか?」

大坂夏の陣終結後の二条城で、家康は荒々しく3度も言ったという。家康は人を叱る際、人払いをしたうえで、物柔らかに言い聞かすことを心がけていたというが、『三河物語』で描かれる実態は全然違って、大久保彦左衛門を相手に人前で怒鳴りまくっている。

冒頭の言葉に戻ると、家康は真田信繁(幸村)が最後の突撃をしてきた際に、旗持が身辺にいなかった件にえらく腹を立てていた。そこで、旗奉行たちを詰問しようとしたが、広間に見当たらない。そんな状況のなかで叫んだ言葉だった。

戦国の世を“走り勝った”徳川家康。「大坂夏の陣」前後の尋常でなかった移動距離_1
徳川家康像
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『戦国ラン』を書くために『三河物語』を読んだ時、初めはどういう意味かよく分からなかった。『三河物語』は彦左衛門の自叙伝で、家康を中心とした徳川家の歴史も綴られているのだが、彦左衛門はついぞ読者目線というものがなくいつも説明が足りない。

だが、『戦国ラン』を書いているうちに、自然と戦国時代の地理や道事情に詳しくなり、家康の言葉の意味が分かるようになった。

家康もそうだが、大坂夏の陣が終わった後、徳川家の家臣たちは豊臣秀吉のつくった京街道を使って、京へ帰ろうとした。なかには淀川に船を浮かべたものもいたかもしれない。

淀は宇治川と桂川が合流し淀川に名を改めるちょうどその位置にあるため、淀川はもちろん、ほぼ淀川に沿って伸びる京街道を行く場合も、必ず立ち寄ることになる。そして、古代以来の名津である淀は、宿場町として殷賑を極めていた。

戦いに勝ってすっかり気が抜けた者たちは、そこから北へ約13㎞の位置の、怖い怖い大御所様(家康)のいる二条城まで出仕するのが嫌になったに違いない。言うともなしに「淀に泊まろう、泊まろう」ということになり、大坂夏の陣終結から数えて5日間も、淀で酒池肉林を貪ったのだ。

それに、淀は、豊臣秀頼とともに滅ぼした「おふくろさま」淀殿が、秀吉から賜った土地である。淀殿の呼び名もこの地にちなんでいる。

遊女とたわむれながら、将卒たちは「おふくろさま」をもう一度やっつけている気持ちになったのかもしれない。そして、そんな将卒のなかに、問題の旗奉行たちもいたのである。

まだ、戦後処理が山積みなのに……なるほど、家康の怒りは、ごもっともとなるが、彼の腹立ちはもっと奥が深いのかもしれない。