権力者の親族たち
秀吉は農民から出発しているだけに、先祖代々の家臣というものがまったくなかった。このことは、わかりやすいですね。さらにいうと彼には一門とか親類衆というものがいませんでした。
大名には家臣が必要ですが、一門衆や親類衆という存在もまた「家」を盛り立てていく上で、非常に重要になってくるのです。
たとえば源頼朝(1147年~1199年)も、源氏一門を「一応は」大事にして、一般御家人の上に置く。その一門の中でも一番格上なのは足利。佐竹も有力な源氏一門でしたが、これは頼朝に逆らってしまったので格が落ちた。
他にも武田や小笠原など源氏の家があり、頼朝はそれらの家を一門として優遇しています。そうして鎌倉幕府を秩序立てていくわけですが、その秩序は儀式の際の席次にもきっちり反映されていました。足利将軍家も同じことをやっています。
織田信長も、織田の一門を持っていました。そしてさらにその一段下に親類の家を配置し、一門衆がいてさらに親類衆がいるというかたちで、自分の勢力を秩序立てようとしていた節があります。
たとえば信長には、すぐ下の弟として信勝(?~1558年?)という人がいました。この人にはいろいろな名前が伝わっているのですが「信勝」が一番知られています。この信勝は柴田勝家などに担がれて反旗を翻し、家督争いを起こす。それで信長に殺されます。
ただ信勝の息子、信澄(?~1582年)はなかなか優秀な人物だったらしく、信長は甥にあたるこの人物をずいぶんとかわいがります。しかし信長は信澄には織田ではなく、わざわざ津田という姓をつくってそれを名乗らせました。
信長は、織田の姓を名乗ることのできる人は非常に限定的にする。その下に織田を支える家として親類を配置する。そうした秩序作りを考えていたと思われます。
徳川家も同じことをやっていますね。徳川という姓を名乗ることができるのは御三家だけ。その下に松平という親類衆の家があって、御三家以外は、たとえ家康の子どもであっても、みんな松平姓を名乗る。それだけ徳川は特別。その周囲に松平を名乗る親類衆がいて徳川を支える。そのように秩序立てていきました。
ちなみに津田信澄は明智光秀(1528年~1582年)の婿になりました。その結果、光秀が「本能寺の変」を起こしたときに、信澄は光秀との関係を疑われて丹羽長秀たちに殺されてしまっています。













