まだあった「領有」の曖昧さ
秀長は有子山城主となり、但馬国を領有したとされるわけですが、ところが同時代の史料を見ると但馬国でも美含郡、城崎郡と二方郡は宮部継潤(?~1599年)が支配している。宮部継潤は羽柴秀吉の古参の家来で、秀吉の甥、秀次が一時期、宮部継潤の養子になっていたという間柄です。
また出石郡については木下昌利が支配していたことが確認されています。もっとも、この木下昌利は、もしかすると秀長の家来の可能性もあるので、それであれば秀長領ととらえてもいいのかもしれないのですが。となると、但馬国七郡のうち二つ、あるいは三つの郡は他の人が支配していて、確実に秀長領といえるのは、残りの養父・朝来・七美・気多の四郡しかないということになります。
ややこしいですが、この時期は「一国を与えた」といっても、まだまだ排他的にまるごと統治していたとは限らず「概ねこの国はあなたのもの」といった感覚だったのだと思われます。「一国領有というときは、まるごとその国がその人の領地。独立した勢力はいない」というかたちで明確な統治が行われるようになるのは、秀吉の日本統一を経て、さらに江戸時代になってからのことになるのでしょう。
ちなみに秀長の本拠地は竹田城と有子山城(出石城)とされるわけですが、竹田城は朝来郡。有子山城は木下昌利領の出石郡。そうすると確実に本拠といえるのは朝来郡の竹田城となります。この辺りについては、現代の自治体が観光客を期待して、「秀長の城はうちのほうです」と争うことになりそうですね。













