大坂の陣と家康神話
大坂の陣は、徳川家による天下掌握が確定した戦争である。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は三年後に征夷大将軍に任官した。
だが、その時点では豊臣秀頼が関白に任官するのではないかという観測も流れており(「鹿苑日録」・「萩藩閥閲録」)、秀頼の復権の可能性も残されていた。
慶長十年(一六〇五)、家康嫡男の秀忠が征夷大将軍に任官して、家康は形式的に隠居して大御所となり、駿府に移った。
かくして、徳川家が将軍職を世襲して恒久的に天下を治めることが確定した。
それでもなお、豊臣家は徳川家に対して臣従の姿勢を見せず、豊臣領国は一種の〝治外法権〞と化していた。江戸幕府による全国支配を完成させる上で、豊臣家の存在は大きな障害であり、この問題を解決する処方箋が大坂の陣であった、とされる。
大坂の陣に対する一般的な理解は、徳川家康が卑怯な陰謀によって豊臣家を滅亡に追い込んだ、というものであろう。方広寺の鐘銘を口実に豊臣家を挑発して戦争に持ち込み、大坂城の内堀の埋め立てなどの謀略によって豊臣家を滅ぼしたという認識が「狸親父」イメージを決定づけた。
一例として、徳富蘇峰の見解を紹介しよう。
蘇峰は大正十二年五月に『近世日本国民史家康時代中巻』を発表している。この本の序文で蘇峰は関ヶ原の戦いの時の家康と、大坂の陣の時の家康とを比較している。豊臣秀吉の死後、関ヶ原合戦に勝利するまでの過程で家康は権謀術数を駆使した。
しかし家康の一連の行動は「いかにも自然らしく」見える。「関原役における家康の所作は、人巧尽きて天巧至るの妙技に達している観がある」と説く。
これに対し大坂の陣では、家康の強引な手法が目に余るという。
「徹上徹下、不自然に始まり、不自然に中し、不自然に終わった。大仏鐘銘を、開戦の理由とする不自然だ。冬陣の講和に、郭を毀ち濠を埋むる不自然だ。夏陣終わりに秀頼・淀殿を殺すは勿論、秀頼の八歳になる幼児まで、百方探索の上、これを殺すに至りては、不自然中の不自然というも、誰がこれを不可とせむ」と蘇峰は非難する。
すなわち「関原役は、いかにも悠揚として英雄らしき行動であった。大阪役に至りては、いかにもこせこせとして、なんらのゆとりなく、余裕なく、小人の行動であった」と。
しかし、近年の研究の進展に伴って、大坂の陣のイメージが塗り替わりつつある。通説を再確認しつつ、研究史を振り返り、大坂の陣研究の最前線を紹介する。