昭和歌謡最大のヒットメーカー・筒美京平にとって、記念すべき最初の1位曲

いしだあゆみは、1964年4月にレコードデビューした。歌手と俳優を掛け持ちしながら、日本ビクターから4年間で23枚ものシングルをリリースしたものの、どれもヒットには結び付かなかった。

そして歌手に専念するため、1968年4月に日本コロムビアへ移籍。作曲家・筒美京平、作詞家・橋本淳のソングライターチームにより3枚立て続けにリリースして、その間に必ずヒットを出す、という約束になっていた。

歌手デビュー後、どちらかというとタレントとしての活動がメインだったいしだあゆみだが、歌手に専念するため1968年にコロムビアに移籍した。写真は『いしだあゆみ・しんぐるこれくしょん』(2004年4月21日発売、日本コロムビア)のジャケット
歌手デビュー後、どちらかというとタレントとしての活動がメインだったいしだあゆみだが、歌手に専念するため1968年にコロムビアに移籍した。写真は『いしだあゆみ・しんぐるこれくしょん』(2004年4月21日発売、日本コロムビア)のジャケット
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1枚目の『太陽は泣いている』がスマッシュヒット(18位)したものの、続く『ふたりだけの城』は不発。そして最後の3枚目として、1968年のクリスマス(12月25日)にリリースされたのが、『ブルー・ライト・ヨコハマ』だった。

結果的に、1日10万枚のオーダーが10日以上続き、当時150万枚を超える特大ヒットを記録。後に「昭和歌謡最大のヒットメーカー」となる筒美京平にとって、記念すべき最初の1位曲となった。この時、いしだあゆみはまだ20歳で、大阪の出身だった。

NHK紅白歌合戦にも10回出場するなど“歌手”としても充分な実績を残しているいしだあゆみ。写真は『ドーナツ盤メモリー』(2006年6月28日発売、日本コロムビア)のジャケット
NHK紅白歌合戦にも10回出場するなど“歌手”としても充分な実績を残しているいしだあゆみ。写真は『ドーナツ盤メモリー』(2006年6月28日発売、日本コロムビア)のジャケット

作詞を手掛けた橋本(29歳)と筒美(28歳)は、中等部から青山学院に通っていた。ハイカラな学内には多数のジャズサークルがあり、二人は共に音楽を志す仲間だった。恵まれた環境の中で育んだ洒落た感性は、20代後半になっても失せることはなかった。

『ブルー・ライト・ヨコハマ』が大ヒットした1969年。それは“激動の時代”と言われ、一部の学生たちは“全共闘(全学共闘会議)”の真っただ中にいた。ベトナム戦争に反対する若者たちが、新宿西口広場などで集会を開いて機動隊と衝突。ヒッピー族が街を闊歩しながら、カウンターカルチャーとしてのフォークソングを口ずさんでいた。