昭和歌謡最大のヒットメーカー・筒美京平にとって、記念すべき最初の1位曲
いしだあゆみは、1964年4月にレコードデビューした。歌手と俳優を掛け持ちしながら、日本ビクターから4年間で23枚ものシングルをリリースしたものの、どれもヒットには結び付かなかった。
そして歌手に専念するため、1968年4月に日本コロムビアへ移籍。作曲家・筒美京平、作詞家・橋本淳のソングライターチームにより3枚立て続けにリリースして、その間に必ずヒットを出す、という約束になっていた。
1枚目の『太陽は泣いている』がスマッシュヒット(18位)したものの、続く『ふたりだけの城』は不発。そして最後の3枚目として、1968年のクリスマス(12月25日)にリリースされたのが、『ブルー・ライト・ヨコハマ』だった。
結果的に、1日10万枚のオーダーが10日以上続き、当時150万枚を超える特大ヒットを記録。後に「昭和歌謡最大のヒットメーカー」となる筒美京平にとって、記念すべき最初の1位曲となった。この時、いしだあゆみはまだ20歳で、大阪の出身だった。
作詞を手掛けた橋本(29歳)と筒美(28歳)は、中等部から青山学院に通っていた。ハイカラな学内には多数のジャズサークルがあり、二人は共に音楽を志す仲間だった。恵まれた環境の中で育んだ洒落た感性は、20代後半になっても失せることはなかった。
『ブルー・ライト・ヨコハマ』が大ヒットした1969年。それは“激動の時代”と言われ、一部の学生たちは“全共闘(全学共闘会議)”の真っただ中にいた。ベトナム戦争に反対する若者たちが、新宿西口広場などで集会を開いて機動隊と衝突。ヒッピー族が街を闊歩しながら、カウンターカルチャーとしてのフォークソングを口ずさんでいた。













