1960年代、若者たちの間には「青春歌謡」というジャンルが台頭していた

ツイスト・ブームを頂点にカヴァー・ポップスが人気のピークを迎えた1961年から1963年。

東京オリンピックを間近に控えた日本では、意外にも社会の趨勢とは逆に、復古調で時代がかった流行歌が人気を集めていた。

流しの演歌師として東京の浅草で苦労を重ねた、こまどり姉妹。61年の夏、三味線を手にして着物姿でデビューし、『ソーラン渡り鳥』が最初のヒットとなってスターの座についた。

その年の暮れから62年にかけては、浪曲師から転向した村田英雄が歌う『王将』が大ヒット。レコード産業が始まって以来最高の、100万枚を超える売上げを記録する。

そこに扇を片手に男装の袴姿というファッションで畠山みどりが登場して、『恋は神代の昔から』のヒットを出すと、続いて浪花節調の根性路線による『出世街道』で人気が沸騰したのだった。

急速に衰退していくカヴァー・ポップスに代わって、若者たちの間には「青春歌謡」というジャンルが台頭してくる。

そして若さと夢を礼賛する歌詞と日本的なメロディーが、都会的すぎるポップスについていけなかった若者たちに強く支持された。

『ソーラン渡り鳥/浅草姉妹』(日本コロムビア)。昭和34年10月に日本コロムビアより『浅草姉妹』でデビューしたこまどり姉妹。写真はコロムビア・デュエットスーパーセレクト・シリーズで2012年に発売のもの
『ソーラン渡り鳥/浅草姉妹』(日本コロムビア)。昭和34年10月に日本コロムビアより『浅草姉妹』でデビューしたこまどり姉妹。写真はコロムビア・デュエットスーパーセレクト・シリーズで2012年に発売のもの
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その流れを決定づけたのが日活青春映画のスターだった吉永小百合と、股旅歌謡でデビューした橋幸夫がデュエットした『いつでも夢を』だ。これが1962年の第4回レコード大賞を受賞したのである。

ベテラン作詞家と作曲家が書いた若者向けの歌のヒットから、青春歌謡のブームが巻き起こっていくことになった。そこに登場して人気者になったのが、学生服姿で『高校三年生』を歌う舟木一夫だ。

日本の音楽史研究の先駆者だった故・黒沢進は、そうした1963年の音楽状況についてこう述べている。

「上を向いて歩こう」が「スキヤキ」という英題で全米1位となり、我国の音楽もいよいよ欧米の水準に近づいたかのように見えた1963年だが、「スキヤキ」が米チャートを賑わせていた頃、皮肉なことに日本で最も流行っていた歌は舟木一夫のドメスティックな歌謡曲「高校三年生」だった。

舟木に代表される青春歌謡は、音楽的には藤山一郎や東海林太郎の時代への回帰とも思えるような、洋楽との接点が見出しにくいものだったが、日本の若者たちの生活を反映した詞もウケて、カヴァー・ポップスよりもはるかに売れることになるのである。

そして、日本でのポップス人気は急速に衰え、テレビのポップス番組の多くは9月期で終了。ジャズ喫茶も観客減から軒並み経営難にあえぎ、中には倒産する店も出たりしたのだった。
(黒沢進『黒沢進著作集』シンコー・ミュージック)

そんな中でロカビリー出身の坂本九だけは、22歳にして絶頂期を迎えている。