坂本龍一の大島渚との出会い
2013年1月に映画監督の大島渚が亡くなったとき、当時のニュースは、告別式の最後に弔辞を読んだ坂本龍一が「あなたは私のヒーローでした」と語った、と報じていた。
「一人で(「戦場のメリークリスマス」の)台本を小脇に抱えて会いに来てくださいました。『俳優として出てください』と言われ、僕は心の中では『はい』と叫んでいたけど、グッと我慢して無謀にも『音楽をやらせてくれるなら出ます』と言った。監督は『いいですよ』と即答してくれました」(※)
メジャーの映画会社だった松竹を1961年に飛び出した大島渚は、独立プロダクション・創造社を設立。『白昼の通り魔』(1966年)、『忍者武芸帳』(1967年)、『絞死刑』(1968年)、『新宿泥棒日記』(1969年)と、次々に問題作や意欲作を発表した。
その4作品は創造社とアート・シアター・ギルド(以下ATG)の提携作品で、坂本龍一は、それらの社会的かつ政治的な映画を、中学から高校時代にかけてリアルタイムで観ていた。
ATGの拠点だったアートシアター新宿文化は、明治通りと新宿通りが交差する辺りにあった。そして坂本龍一が1967年から1970年まで通っていた都立新宿高校は、その少し先、明治通りと甲州街道の近くに位置していた。
自宅が京王線の仙川にあった坂本の場合、新宿駅の中央口を出て新宿中央通りを歩くのが最短の通学路になる。
そこは中村屋、三越、紀伊國屋書店、丸井、伊勢丹、映画館、レコードの「コタニ」などが立ち並び、一本路地に入れば喫茶店、同伴喫茶、ラーメン屋、天丼屋、定食屋、パチンコ、スマートボール、寄席、麻雀荘、居酒屋、バーと、種々雑多の店がひしめき合う一帯だ。
しかも1960年代後半の新宿は、政治闘争とアングラ・ムーヴメントの発信地であった。普通に歩けば数分で通り抜けられるのに、30分掛かっても学校に着けずに遅れる者も多かった。