ファミスタをつくったのはゲーム企画素人の若者

佳境を迎える2025年のプロ野球。野球ファンたちは球場やテレビの前で大いに盛り上がることと思うが、この興奮を家庭用テレビゲームに持ち込んだ最初の作品といえば、1986年12月にナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)から発売されたファミリーコンピュータ向けソフト『プロ野球ファミリースタジアム』(以下、ファミスタ)だ。

投手と打者のアップ画面、守備のマニュアル化、選手個人データの搭載……ファミスタはそれまでの野球ゲームにはなかった革新的なシステムを数々導入して、約205万本の売上を記録、野球ゲームの歴史を変えた。

その後、数十本ものシリーズ作品を展開することになるビッグタイトルだが、手がけたのはナムコ入社までゲームプログラミング未経験だったという、5年目のひとりの若手社員だった。

「一応、大学では事務処理などにつかうCOBOL(コボル)といったプログラミング言語の勉強をしてたけど、成績は80人いるクラスの中で後ろから4~5番目。留年ギリギリでしかも、ゲームプログラミング知識もゼロ。

そんな私をなぜナムコが雇ったのか。それはこれからはビデオゲームの時代だと考えて、新卒でプログラマーをたくさん採用したかったからでしょうね。まぁ当時ゲームプログラミングを教えている大学は皆無だったので、新卒でプログラマー採用された同期の誰もゲームプログラミングの知識はなかったんですが」

“ファミスタの父” 岸本好弘さん。現在はゲーミフィケーションデザイナーとして活動し、ゲーム要素を使って日常生活を変えていく取り組みに力を注ぐ
“ファミスタの父” 岸本好弘さん。現在はゲーミフィケーションデザイナーとして活動し、ゲーム要素を使って日常生活を変えていく取り組みに力を注ぐ
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“ファミスタの父”と呼ばれるようになる岸本好弘さんはそう当時を振り返る。その頃のゲームシーンといえば、78年にリリースされたアーケード用ゲーム機『スペースインベーダー』の大ブームで一般にもビデオゲームの存在が認知されていたものの、コンシューマ機(家庭用ゲーム機)の普及は83年の「ファミリーコンピュータ」(ファミコン)の発売を待たなければいけなかった。

「私が学生だった80年代初頭はゲームで遊びたいならゲームセンターに行かなきゃいけないんだけど、今と違ってあの頃のゲーセンは薄暗い不良のたまり場。健全な青少年がそこでゲームをしたければ、カツアゲされないように無事に帰還する“リアルメタルギア”も、同時にプレイしなくちゃいけませんでした(笑)」

命がけでゲームセンターで遊んだタイトルのひとつにナムコが開発した『ギャラクシアン』があったのも何かの縁だったかもしれない。気がつけば岸本さんは自らがゲームをつくる立場になっていた。

82年に入社して『パックランド』(84年)、『バラデューク』(85年)とアーケードのヒット作に携わるなか、岸本さんのクリエイター人生を変えるファミスタの着想を得たのは、次作の『トイポップ』(86年)というアクションゲームの制作に入る前の期間だった。