「町一番」のタイトル防衛戦の行方

学歴フリークのみなさんなら、花巻東高校の校舎に大谷翔平や菊池雄星と並び、同校初の東大合格者(二浪)の名前のデカい垂れ幕が垂らされていたことをご存じかと思うが、あのぐらいのインパクトを私は中学校に、そして町に残したつもりだったのである。

国崎くんと私は会ったことすらないが、妹いわくイケメンで、勉強だけでなくスポーツもかなりできるとのことだった。京大在籍中の私は「フーン」と思っていた。

そのような万能型はおそらく勉強で私に勝つことはできない、女子からキャーキャー言われスポーツで爽やかに汗を流すような奴(※想像です)は結局勉強が中途半端になり、俺のいる高みには届かないだろう……私は当時、自らのキングの地位がおびやかされることはないと確信して、それほど国崎くんのことを気に留めなかった。

写真はイメージです(PhotoAC)
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そして私が大学でダラダラしているうちに、町のネットワークによってオカンから国崎くんの高校受験の結果が知らされた。

私と同じ塾から私と同じように合格実績稼ぎの受験ツアーに参加し、結果は某R高合格、ラ・サール合格、そして東大寺学園不合格ということらしかった。私は「ほう、ラ・サールまでは来たか」と感心した。

だが、やはり女子からキャーキャー言われてスポーツも万能みたいな野郎(※想像です)には、高くそびえ立つ東大寺の壁は越えられなかったのだな、とも思った。

私は当然ながら中学時代に各校の過去問を解きまくったが、某R高とラ・サールで合格最低点を下回ったことはなかった。しかし、東大寺だけはたまに落ちることがあったのだ。当時の私は東大寺とそれ以外の高校に大きな差を感じており、また母親もそう考えていた。

東大寺受験の時に家から持っていって使った緑色のスリッパは、長らく「東大寺」の愛称で勝利を象徴する神として家に祀られ、何か勝負事があるとスリッパに手を合わせるというアホみたいな状態になっていた。

写真はイメージです(PhotoAC)
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私が「町一番」のタイトルを防衛した後、国崎くんは某R高の私と同じコースに入った。

そこでは東大京大国公立医学部志望者以外は家畜以下の扱いなので、国崎くんもまあそのどれかを目指すのだろうとは思っていたが、爽やかスポーティイケメン(※想像です!)にあの偏差値のみが力となる異常監獄の苦しい三年間を乗り切れるか怪しいものだ、クゥクゥクゥ……!という、ほとんどお手並み拝見みたいな気持ちでいた。

それから時が流れ、私が大学四回生になって小説を書き始めた頃、私の母親が国崎くんの母親と平和堂(滋賀県で覇権を握るスーパーマーケット)で会って話を聞いたらしく、国崎くんは東大を受けるつもりだということがわかった。私はまたも「フーン」と思っていた。

「東大を受ける」と言うだけなら、大物受験生・永森にだって言えることである。私はやはり大して気に留めず、小説や卒論を書きながら、周りの友人らと酒を飲みまくりつつ最後の一年を過ごした。おそらくあの年よりビールを飲んだ年はない。

そして私のモラトリアム期間も終焉を告げようとしていた三月の半ば頃、平和堂から帰ってきた母親が「恭一!」と私に呼びかけた。

写真はイメージです(PhotoAC)
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何かうめぇオヤツでも買ってきてくれたのかと思ったが、母親は真剣な顔で「国崎さんとこ、東大受かったんやて」と言った。私は驚きを隠せなかった。今年合格ということは現役合格である。

「へえ、東大のどこ?」

私は平静を装い、恐る恐る聞いた。

「文一やって」
「おお、すげーやん」

私はその瞬間、自分がついに「町一番」ではなくなってしまったことを悟った。私が狂気じみた勉強一本槍の生活でかろうじて達成した記録は、爽やかスポーティイケメン(※)に見事塗り替えられてしまったのだ。現役東大文一となれば、もはやどうあがいてもこちらに勝ち目はない。国崎、お前がナンバーワンだ……!