もう少しだけお前の前を走れるかもしれない
かつて世界最大の格闘技団体UFCで10年無敗、7回連続で王座を防衛していたジョゼ・アルドという選手が、当時新星だったコナー・マクレガーに秒殺KO負けを喫したように、伝説の神童もいつかは必ず負ける時が来る。
私は町に新時代を作った若者に拍手を贈るような気持ちで、母親に「完全に負けたな」と言った。すると、母親は微笑みながら言った。
「でもな、国崎くんのお母さんに聞いたんやけど、国崎くんは恭一に勝ったと思ってないんやって」
「は? なんで?」
「やっぱり国崎くん、東大寺に落ちてるから。その時に感じた東大寺の難しさっていうのがすごい印象に残ってるらしいんよ。せやから東大寺に受かったあんたのことをずっと尊敬してるらしくて、東大には受かったけど、全然勝った感じはせえへんって言ってるらしいわ」
「いや、普通に勝ってるやろ」
「まあ、本人はそう思ってへんのやってさ」
変わってんなあ、と私が言い、それで国崎くんについての会話は終わった。
だが、国崎くんはずっと私の幻影を追ってくれており、それを東大文一現役合格という最高の形で乗り越えてくれたのだと考えると、なんとなく胸に熱いものが湧き上がってくるのを感じた。
国崎、俺は一浪で京大だ、もちろんお前の勝ちだ、でも聞いてくれよ、俺は誰もが知る立派な一流企業に内定したんだ、だからもう少しだけお前の前を走れるかもしれない、4年後か6年後か知らないが、その時にもう一度俺を乗り越え、真の「町一番」になってみせろ……!
その後、私は当の会社を一年であっさりやめ、傍目にはゴミと区別のつかない「ありえない量の小説を書くが表に出るのはせいぜいその1%ぐらい」マンとなった(母親は近所の人たちに、私の現状を詳しくは語っていないらしい)。
したがって、国崎くんはきっと自動的に私を乗り越えているだろう。
もうあれから15年以上、国崎くんがどうなったかという情報は私に入ってきていない。もしかすると母親が気を遣って知らせてこないだけかもしれない。
だが、私は神童の先輩として、神童と呼ばれる存在が長きにわたって晒されるプレッシャーの過酷さを知る者として──ただの一度も会ったことはないものの──心から国崎くんのことを応援しているのだ。
言うまでもないことだが、受験でもっとも重要なのは大学受験である。中学受験、高校受験で失敗しても、大学受験で取り戻せる。それが常識的な考え方だろう。
しかし、国崎くんが東大文一に合格しても東大寺落ちの記憶を払拭できていなかったように、そして岸田元総理が出身の早稲田大学(二浪)ではなく「開成OB」のステータスを押し出していたように、最終学歴だけでなく中学や高校受験の栄光と挫折もまた、人の心に永く残っていくものなのだ。
たとえ東大や京大の合格者であっても、それどころか内閣総理大臣になった者であっても、内面的にも勝者であるかどうかは、結局本人にしかわからない。
私が言うのもなんだが、東大合格何名、京大合格何名といった統計上の数字には含まれない、個々の精神の複雑な機微を理解しようとしなければ、少なくとも東大=人生の勝者といった安易なイメージから逃れることを志向しなければ、人間を人間として捉える力は失われていく一方だろう。
わかりやすいSNSのフォロワー数やら反応の数を競う態度も、もっと極端なことを言えば、大谷翔平や藤井聡太のような人間を最高の成功者のモデルとして無反省に賞賛し消費する態度も、あまり良い傾向ではないと思う。
人々がそうした反射的とすら言える反応をひたすら繰り返した先には、ほとんどのものが固有性や複雑性を消去された「統計」として処理される世界が待っているのではないだろうか? もしかするとすでにそうなっているのかもしれないし、私もそれを知らず知らずのうちに歓迎してしまっている面もあるのかもしれない。
しかし個人的には、その流れに抵抗する態度のうちにこそ、人間の善さが立ち現れるのではないかと思っている。これまたお前が言えたことかという話だし、非常に難しいことでもあるが、ものごとを単純化しすぎる人類への警鐘として、文学というものが機能し続けてほしいと私は思っている。
文/佐川恭一