「国体」(天皇制)を守るために沖縄の人々が捨て石にされた

沖縄戦は、日本軍にとって本土防衛準備のための時間稼ぎの戦いであると同時に、天皇制を守るために米軍に一撃を与えようとする戦いでもあった。

両者は矛盾する側面があり、実際に沖縄での日本軍の戦い方に混乱が生じたが、いずれにせよ「国体」(天皇制)を守るために沖縄の人々が捨て石にされたことに変わりはなかった。

1個師団を減らされ増援の望みも絶たれた第32軍は水際で決戦をおこなう作戦を放棄した。

本島中部西海岸(読谷から北谷)に米軍が上陸してきた場合、そこにある北飛行場(読谷)と中飛行場(嘉手納)を放棄、首里に軍司令部を置き、首里の北側にある宜野湾から西原以南に主陣地を構えて、そこで持久戦をはかるという作戦計画を採用した。

44年12月から首里城の地下に軍司令部壕を作る工事が始まり、米軍上陸直前の45年3月に軍司令部はこの地下壕に入った(保坂廣志『首里城と沖縄戦』第1章)。

なお第32軍はこのふたつの飛行場や伊江島飛行場は米軍上陸直前に放棄し、一部は破壊した。同時に増援が期待できないことから沖縄県内で住民の徹底した根こそぎ動員が図られることになる。

米軍が上陸後に押収した日本軍文書によると表1-1のように第32軍の人員は1945年2月28日時点で、沖縄本島とその周辺だけで6万6490名(または6万5420名)、宮古・八重山諸島や奄美群島、大東諸島なども合わせると総兵力10万9786名(または10万8716名)だった。

その後、3月に臨時召集と防衛召集がおこなわれ、後者の場合、第62師団だけで5480名を防衛召集する予定であったことがわかっているが、3月3日の沖縄本島全域での防衛召集(6日に出頭)だけで約1万4000名にのぼっている。

さらに3月中にも引き続き防衛召集がおこなわれ、月末には師範学校や中学校・実業学校の男子学徒が防衛召集されているのでこれらを含めると、沖縄本島とその周辺における日本軍は9万名から10万名、第32軍全体では13万名を超える兵力であったと推定される。

米軍はなぜ沖縄をねらったのか…大本営に本土防衛の捨て石として利用された事実と米軍の作戦との乖離〈沖縄戦から80年〉_2
米軍はなぜ沖縄をねらったのか…大本営に本土防衛の捨て石として利用された事実と米軍の作戦との乖離〈沖縄戦から80年〉_3
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