米軍はなぜ沖縄をねらったのか
米軍はなぜ沖縄を奪おうとしたのだろうか。マリアナ諸島を占領し、フィリピン進攻作戦を控えた1944年10月3日、統合参謀本部は45年1月20日に硫黄島上陸、3月1日(後に4月1日に延期)に沖縄上陸をおこなうという作戦命令を下した。
この沖縄攻略作戦を米軍は「アイスバーグ作戦」と名づけた。日本を降伏に追い込むためには日本本土進攻が必要と考えていたが、台湾―中国沿岸部のルートと、硫黄島―沖縄のルートのどちらを取るかという議論があり、後者が選択された。
日本本土進攻のための中継補給拠点と同時に航空基地を確保して本土攻撃や本土封鎖(大陸や南方との交通遮断)をおこなううえで沖縄が重要な地として選ばれた。
このアイスバーグ作戦は、慶良間列島攻略から沖縄本島上陸、伊江島と本島の占領と基地建設、その他の南西諸島の占領、と3段階に区分された。
特に飛行場は沖縄本島の8つを含めて計13滑走路を計画していたが、上陸後の4月19日の偵察により沖縄本島に18、伊江島に4、計22の滑走路建設が可能であると判断したために第3段階の作戦(宮古島や喜界島などの占領)は中止された。
この結果、宮古や奄美での地上戦が回避されることになったが、数多くの飛行場建設のために本島の住民は北部の狭い地域に押し込められ、飢餓やマラリアで犠牲をたくさん出すこととなった。
地上作戦は、バックナー陸軍中将の率いる第10軍が陸軍4個師団、海兵隊3個師団など総兵力18万人あまり、それを支援する海軍の中部太平洋艦隊などを合わせると総兵力は50万を超えた。
太平洋戦争における最大規模の上陸作戦だった。さらにこれらの部隊が沖縄とその近海にとどまって戦えるように、米本土からの物資輸送体制も整備された。
日米両軍ともに上陸地点として、中部西海岸か、南部の港川海岸の2か所が候補として考えられたが、大量の兵力や物資を陸揚げする広さがあり、飛行場にも近い中部西海岸を米軍は選択し、港川海岸には上陸すると見せかけて日本軍を牽制する陽動作戦をおこなっただけだった。
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