ありとあらゆる遺骨収集現場から出てくる手榴弾

日本軍の手榴弾(しゅりゅうだん)は、ありとあらゆる遺骨収集現場から出てきます。沖縄戦で手榴弾が実際にどのように使われたのかを知ると、当時の日本政府や日本軍が、兵隊や住民をどのように扱い、位置づけていたのかがよくわかります。

ガマ(*)での遺骨収集をはじめたころ、遺骨は、ガマの入り口付近と奥にかたまっていることが多いということに気づきました。入り口付近にある遺骨には戦闘の痕跡があり、多くの場合、土砂に埋もれていました。他方、壕(ごう)の奥にある遺骨は、上半身のないものが多数をしめています。

はじめは、上半身がないのは、戦後に壕内が荒らされて、遺骨が散らばってしまったためだろうと考えていました。けれども、下半身は関節もきれいにつながっているのに、どうして上半身だけがバラバラになっているのか、不思議でなりませんでした。

「1つはアメリカ兵を殺すため、もう1つは…」10代の学徒隊にも渡された“2つの手榴弾”の使い道とは? 上半身のない遺骨が教える、沖縄戦における“自殺の強制”_1
日本軍の四式陶製手榴弾と、大腿骨のひざの関節部分
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遺骨とともに出てきた不発の手榴弾

その理由がわかったのは、糸満市の摩文仁(まぶに)の海岸に面したガマで遺骨を収集していたときでした。

信管(しんかん)に打撃痕が残る不発の手榴弾が遺骨とともに出てきました。「あれ?」ぼくは土を掘る手を止めて考えました。いったいどういう状況だったのだろう?

ガマの入り口付近にいる敵を攻撃するために、手榴弾の安全ピンを抜いて信管を叩いたとしたら、つぎの動作として、当然それを敵に投げつけるはずです。すると不発だったこの手榴弾は、入り口付近に転がっていなければなりません。ところが、手榴弾は遺骨とともに出てきたのです。

ぼくはもう一度考えました。手榴弾は信管を叩いた後、4、5秒で爆発します。信管を叩いたらすぐに投げなければなりません。ですから、不発であってもなくても手元に残るはずがないのです。不発になった手榴弾を持ち歩くということも考えられません。

もしかしたら覚悟の上での自殺だったのかもしれない……。いつになく張りつめた気持ちで遺骨の状態を注意深く確認すると、下半身はそろっているのに、上半身は腹から上がありません。よく探すと見つかりましたが、ばらばらに砕け散っていました。

胸椎(きょうつい)が4個ほどつながった状態で、少し離れたところから出てきました。胸椎に肋骨(ろっこつ)はついていましたが、どれも短く、5センチメートルほどしかありませんでした。上腕骨も破折して半分しか見あたりません。頭蓋骨(ずがいこつ)はいくつにも割れていて、顔面にあたる部分はどこにも見あたりません。

*ガマ…沖縄本島南部に多く見られる自然の洞窟。おもに石灰岩で形成された鍾乳洞(しょうにゅうどう)。なかには人が1000人以上も入れる大きなガマもあった。