『バレンタイン・キッス』にもどかしさも
そんなチャンスが、国生にもめぐってきた。1986年2月1日、「国生さゆりwithおニャン子クラブ」名義のシングル『バレンタイン・キッス』でソロデビューを果たしたのだ。
この曲は、今でもバレンタインデーのシーズンになると全国の街中で流れる、国民的なヒットソングとなった。だが、当時はもどかしさも感じていたという。
「ヒットの要因は、秋元康さんが運を持ってらっしゃったからですね。実はB面に入っている曲(『恋はRing Ring Ring』)でデビューすると決まっていたんですけど、『2月はバレンタインデーだから』と秋元さんが急遽、差し替えられたんです。
若い頃の私は、『バレンタイン・キッス』のあとも現在進行形で新しい曲を歌っているし、ドラマにも出ているのに、バレンタインデーになると『バレンタイン・キッス』ですねと言われることに対して、アップデートされないもどかしさやはがゆさはありました。
でも、今は素直に『ありがとうございます』って思います。それに、『バレンタイン・キッス』が毎年かかるようになったのは、私じゃなくて、その時々のアイドルの方たちが2月前後になると歌ってくださるから。
例えば、テニプリ(アニメ『テニスの王子様』)のキャストのみなさんが歌っているので知って、『調べてみたら国生さんの歌だったんですね』という声も聞きます。もう私の曲ではないんですよ」
ソロデビューを果たし、女優業にも取り組み始めた国生は、『夕やけニャンニャン』以外での仕事の厳しさを知ることとなる。
「『夕やけニャンニャン』のスタッフのみなさんからは、宝物みたいに扱われてたんですよ。なんとか育ってってほしい、なんとか順応してほしいと。ケアできることは俺たちがやるんでと、勉強を教えてくださる方もいました。
でも、ソロになると、そんな温室から離れて各テレビ局に顔を出すわけでしょ。そのときに『芸能界ってめっちゃ厳しい』って思ったんです。
要求値っていうのかな、完成度っていうのかな、それを求められるし、全くの1人じゃないですか。震えましたよね」
ソロの仕事で厳しさを感じたという国生だが、1987年3月におニャン子クラブを卒業。本格的に、1人で芸能界を歩み始めることとなる。そして、プライベート面でのできごとも含めて、長く続く葛藤の日々が始まった。