台所にいた母が包丁を持ってきて
幼い頃から細かいことが気になるタチだったと難波さんは自身を振り返る。
「外にいるとき、私は姿勢が硬直していることが多かったんですが、まわりの子は貧乏ゆすりをしたり、手遊びをしたりしていて。そのほうが手持ち無沙汰にならなくていいなとうらやましく思っていたんです。私はどう振る舞えばいいのか、わかりませんでした」(難波ふみさん、以下同)
独特な着眼点を持つ難波さんだが、一方で過剰ともいえる気の回し方によって疲弊することもしばしばあった。最初のつまづきは、小学校1年生のときに経験した転校だった。
「転入生として教室に入ると、必ず自己紹介があるじゃないですか。私はたぶん、小さな声でボソボソしゃべっていたと思います。ちょうど入れ違うように転校していった子がいたらしく、周囲の様子から、その子が人気者であることを知りました。
私は子どもながら、『人気のある子に代わって転入してきたのが私みたいな陰気な人間で、みんなガッカリしただろうな』と申し訳なく思って、居心地の悪さを感じていましたね」
小学校4年生になると、学校生活も立ち行かなくなるほど自らの性格に手を焼いた。
「『板書を丁寧に書き写さねば』という強迫観念があったんですが、満足にノートに書き取る前に黒板が消える――みたいなことがあり、生きづらかったですね。また学校を休むと、悪気のない級友から『登校拒否か?』とからかわれたりして、『そうなのかもしれない』と気持ちが沈みました。その後、5年生のときのクラス替えで唯一仲のよかった友だちとはぐれてから、不登校になりました」
不登校の期間、「理解者がいなかった」と難波さんは肩を落とす。現在は良好な関係だという母親とも、こんな緊迫した場面があった。
「当時の私は家庭内でとても荒れていました。新聞紙をビリビリに破ったりして暴れることもしばしばあったんです。小5のあるとき、いつものように私が暴れると、台所にいた母が包丁を持って私の頬から首にくっつけてきて、『死にたい? 一緒に死のうか』と言いました。あのときの静かな沈んだ声はいまだに覚えています。
思い返せば母も、心底疲れ切って追い込まれていたのだと思います。不登校の子どもがいることによる外圧もあったのでしょう。家庭内では私が暴れていて、気持ちをどこに持っていけばいいのか本当にわからなくなっていたようです」
当時難波さんが感じていた孤独感は、絶望と呼ぶにふさわしいものだ。
「親に迷惑をかけて申し訳ない気持ちがありました。そして私の気持ちを誰も理解してくれないこの状況を嘆いて、『消えたい』と思っていました。死にたいのではなく、消えたかったんですよね」
当時について、母親と「大変だったね」と振り返ることはあっても、具体的に何かを言及をすることはお互いにないのだという。
さらに悪いことに父親のアプローチはさらに過激で、難波さんの孤立感を一層深めるものだった。
「強烈に覚えているのは、小学生のとき父から『学校へ行くと言え』と怒鳴りつけられながら殴られ続けたことです。身を守るためにかがんだ私は、たぶん土下座をしているような姿勢になっていたと思います。
父が42歳のときに私が生まれているため、年代としては”ザ・昭和”みたいな男性です。働いて家計を支え続けてくれた父への感謝はある一方で、ある時期までは、『父を殺さなければ』と私は思い続けていました」