31歳にして高校入学
14歳で自らの部屋を与えられた難波さんは、その日から自室が城になった。「部屋に対する執着が異常にあるんです」と語る彼女にとって、自室とはなんだったのか。
「社会にはもちろん、家にも安心できる場所がなかった私にとって、自分の部屋は唯一の逃げ場でした」
長きにわたって引きこもり生活を続けてきた難波さん。しかし皮肉にもその逃げ場を失う日がきた。28歳のときだ。家計が立ち行かなくなり、引っ越しを余儀なくされた。
「父が会社の人間関係などでうまくいかなくなったらしく、それに伴って経済的に厳しくなりました。結果として父は自己破産するのですが、我が家も借家住まいになりました」
このあたりで難波さんは一度社会に出ようと試みるが、分厚い壁に阻まれた。
「アルバイトの面接を複数受けましたが、いずれも断られました。就労さえできない自分の不甲斐なさを感じました。
同時に、一度道を外れてしまった人間に対する社会の不寛容さを肌で感じました。もちろん生きている価値がないのではないかと思い詰めたこともあります。けれどもそのとき、高校に入ってみようと思えたんです」
一見突拍子のない判断かのように見えるが、難波さんは31歳にして高校生となった。同級生は当然、年下ばかり。だが知り合った仲間たちとは現在も交流があるのだという。
「高校へ進学したことが人生の転機になったと思っています。私は使わない知識をすぐに忘れてしまう性質があって、高校に入学した時点では、九九も覚えていませんでした。それでも学ぶことの楽しさを知れたし、人生の寄り道をした同級生も多いので人の痛みを理解してくれる子が多くてその存在に助けられました。
高校の入学面接でお世話になった先生はなにかと気にかけてくれて、卒業後もランチをする仲です。同級生のなかには母親になった人もいますが、家に遊びに行くこともあって、高校時代に関係性を深められてよかったなと心から思います。
また、高校時代から働いていた友人もいたので、彼女の話を聞いて社会に関心が持てたことも、私が社会との接点を取り戻せた要因のひとつかなと感じます」
「死刑宣告を受けたに等しい」を乗り越えて
高校生活を経て、究極の自分史ともいえる著作『気がつけば40年間無職だった。』を世に放った難波さんは、その反響を踏まえたうえでこう話す。
「ひきこもりの当事者の方からお便りをもらうこともあり、それは励みになります。また、引きこもりのお子さんを持つ親御様からの声も多数あります。
あの当時、理解してくれる人がいないことは死刑宣告を受けたに等しい心境でした。だから、この書籍を通じて『私はここにいる』ということを伝えたかったんだと思います。
そのときに求めたものは私の場合、残念ながら得られませんでしたが、そういう経験があったからこそ、作品を生み出せたとも思っています」
不登校や引きこもりの問題は根深い。世の“当たり前”を遂行できない惨めな自分と向き合う時間はなんと長いことだろう。その長いトンネルでもがき続けた難波さんが声を上げた。どんなにか細い声でも、ないことにはならない。
停滞する人たちの背景に少しでも思いを馳せられる社会の幕開けに、この一冊が寄与するといい。
取材・文・写真/黒島暁生













