コロナ禍の不安のなか、流れてきたある曲
「子どもの頃って感情の振り幅があって、つらいこともあったけれど楽しかったと思います。あの頃の感覚を映像として残すことができれば」
奥山監督は、子どもたちの感情の機微にスポットライトをあてた本作の作品背景をそう語る。物語の主人公のタクヤは、男女二人組デュオのハンバートハンバートによる楽曲「ぼくのお日さま」の「ぼく」にインスピレーションを受け、形作られた。
「コロナ禍で仕事が全部動かなくなり、家に1人でいるときにSpotifyのレコメンドでの楽曲が流れてきたんです。この楽曲は昔から知ってはいたものの、当時のあてもない不安な気持ちに寄り添ってくれるようでした」
その瞬間、停滞していた脚本作業に光が射したように思ったという。ただ「生半可な気持ちで吃音を映画の題材として扱うべきでなない」ことは監督自身が一番理解していた。描き方を少しでも誤ると偏見を助長し、当事者を傷つける作品になりかねない。
脚本や芝居については日本吃音臨床研究会の原由紀氏に意見を求め、同研究会主催の「吃音親子サマーキャンプ」にも参加した。
吃音を持つ親子とともに過ごすなかで耳に残ったのは、ある少女の「吃音について理解してほしいんじゃなくて、放っておいてほしいんだよね」という素直な本音だ。その傍らでは、吃音をもつ親子がお互いに言葉を詰まらせながらも、ごく自然に会話している姿があったという。
家族で食卓を囲むシーンでは、タクヤと父親はお互いに言葉につまりながらも、言葉をかわす。母親も兄もそのやり取りに対して、気に留める様子はない。いつもタクヤの隣にいる親友は吃りをからかうこともなければ過剰に気を遣うこともない。
なにもしないからこそ見えてくる優しさがそこにはある。