「あだ名禁止」で押し込められた子どもたちの言葉はどこにいく?

「あだ名禁止の小学校が増えている」というトピックが世間を賑わせたのは1〜2年前くらいだっただろうか。

僕が若い頃には「最近の小学校の運動会では、徒競走でみんなが手を繋いでゴールするらしい」という話が広まったことがあった。

これは後に、実際にその光景を見た人がいるかどうかも疑わしい噂話だったということがわかるのだけど、長く賛否両論があったゆとり教育・ゆとり世代の問題と結びつき、根強く人々の印象に残ったように思われる。
 
「手つなぎ徒競走」がゆとり教育・ゆとり世代の問題と結びついていたように、「あだな禁止」の話題が世間に広まった要因のひとつには「反ルッキズム」があるのだろう。

子どもであるということは、他者の内面やバックボーンについて考えてきた時間が少ないということで、互いの身体的特徴に目がいきやすいのは仕方のないことだ。

思ったことをすぐ言葉にしてしまうのも子どもだし、他人の言葉に傷つきやすいのもまた子ども。それがいじめにつながる可能性の高さを思えば、学校として「あだ名禁止」をルール化するのもわからない話ではない。

なにせ僕が子どもの頃は、坊主頭の野球部はだいたいハゲと言われていたし、太った子は省略した名前のあとにブーを付けられた。天パの子はダイブツとかヤキソバ。僕は痩せていてホクロが多かったので「ガリホク」と呼ばれたりもした。ひどい。
 
僕の息子が通っていた小学校では、あだ名に関して明確なルールがあるわけではないようだったが、妻や息子の話を聞くと、なんとなくそういう空気は醸成されているように感じた。

心ない言葉に我が子が傷つけられる可能性が低いことに親としてホッとした一方、今が時代の変わり目なのだなと思ったことを覚えている。
 
「みんなが手を繋いでゴールする徒競走」が実際に行われていなかったとしても、ゆとり教育は行われていたし、その方針やゆとり教育を受けた世代をよく思わない人々もいた。

「手つなぎ徒競走」の噂はその軋轢から自然発生したものだろう。同じように「あだ名禁止」が一部の学校でしか施行されていないルールだとしても、あだ名的なものを忌諱する空気は今まさに世間を覆っている。

僕が気になるのは、時代が変化すると必ず起こる、何年後かの反動だ。

昨今問題になっている教育格差の遠因のひとつにゆとり教育があるということは、子を持つ親のひとりとして実感せずにいられない。

では「あだ名禁止」で押し込められた子どもたちの言葉はどこにいくのか。それらは澱のように心の暗部に溜まり、なにかの拍子に一斉に決壊するのではないか。彼らの心がどう成長していくのか、既に古い世代である僕には想像することが難しく、心配だ。

その一方で、薄毛、白髪、老眼(鏡)、中年太り、歯抜けなど、身体的特徴の変化がどんどんあらわれてくる年代にさしかかった身として「あだ名禁止」の反動に震えてもいるのだった。

文/トリバタケハルノブ