キモくて金のないおっさん
続いて、弱者男性という言葉が現代社会に生まれるに至った歴史的経緯を押さえておく。そのためにはまず、2015年にネット論客の一柳良悟氏が生んだ「キモくて金のないおっさん(KKO)」という概念について語る必要がある。
この言葉自体がドギツイ響きを持っているが、まずはぐっとこらえて読み進めていただきたい。
「キモくて金のないおっさん(KKO)」とは、容姿に恵まれず、年収が低い中年男性を指すネットスラングであり、先述の弱者男性より先行して生まれた言葉である。略して「キモカネ」と呼ばれることもある。
X(旧:Twitter)上で「オッサンの貧困を最近扱っているけど、驚くほど共感を得られない。性の商品化が問題などと言う人もいるけれど、買えない、売れない、キモくて金のないオッサンのほうがどう考えても詰んでると思うのは俺だけ?」と一柳氏がつぶやいたことが発端となり、一気に世の中に広まっていった言葉だ。
人々の間で「キモくて金のないおっさん」概念が認知されていった背景には、2000年ごろから問題視されるようになった孤独死問題、2008年に起こったリーマン・ショックを経てテレビを賑わせた年越し派遣村問題などがある。
それまで、世間一般から見て「強者」として君臨していた男性が、実は社会的弱者の場合もあることが、少しずつ認識され始めたのだ。
そして近年、「キモくて金のないおっさん」という言葉が差別的であるとして「弱者男性」と言い換えられ、今に至る。だが、そのエッセンスを見失ってはいけない。容姿に恵まれない、お金がない、中年であるといった要素が「キモい」と、軽蔑して扱われるという現実を鋭く切り取ったのが、この言葉だったからである。
そして、「弱者側に追いやられる男性がいる」事実への注目度は、女性や子どもの人権問題と比較して、かなり低い。そして、弱者男性の存在は世の中に認知されてはいるものの、支援の手はあまりないのが現状だ。
その理由に、「かわいそうランキング」の存在が指摘されている。「かわいそうランキング」とは、文筆家・ラジオパーソナリティである御田寺圭氏が提唱した言葉である。
簡単に書くと、人は同じ境遇にある人でも「よりかわいそう」「そうでもない」といった序列をつけている、といった思想である。そして、御田寺氏はかわいそうランキングの下位には弱者男性が置かれているとされ、不平等・不公平な配分がなされてしまうことを指摘した。
というのも、弱者男性は得てして「自助努力が足りないから弱者になった」と言われているからだ。だが、「キモくて金のないおっさん」は果たして、自分のせいでそうなっているのだろうか。
たとえば、両親が大卒だったグループと高卒だったグループに分けたとき、高卒以下の親から育った人の貧困率は大卒グループの約3倍となる。親の学歴は自分で選ぶことができないのに、「金がない」のは自己責任なのだろうか。
あるいは、自分の顔がどうあがいても美しいとは言えず、そのせいで辛酸を舐めてきたとして、それは自分のせいだろうか。新しい服を着て、ひげをそり、眉毛を整えても、毛の濃さや肌の荒れやすさから「美」に近づくコストが高い方はいる。
男女問わず、これを「努力不足」と一蹴してもよいものだろうか。たとえば「百点満点中、60点の美しさ」にたどり着くために、必要なコストが人によって違いすぎるのではないだろうか。特にそれを、貧困や虐待などのストレス下にありながら、実現するのはかなり難しいのではないだろうか。
だが、こういったことを男性が発信することは稀である。SNSで声を上げようものなら「言い訳がましい」「そんなことを言ってる性格だからモテないんだよ」と、加害されるのが関の山だからである。
決して自分のせいだけではないにもかかわらず、弱者男性は社会から、世間からないがしろにされやすい。特に女性と比べたとき、弱者男性はかわいそうだと思われにくい。男性は元来、強者だという前提があるからだ。
結論、キモくて金のないおっさんは、かわいそうランキングの下位に置かれる存在である。だが、同情されにくいからといって、支援から遠ざけられてよいのだろうか。そういう視点から生まれたのが、「弱者男性」という言葉だといえるだろう。
図/書籍『弱者男性1500万人時代』より
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