日本で一番厳しい評論家でした
―― 例の自動車事故で入院して自宅に戻ったとき、「本を読むのが自宅療養の日々だった。このときぼくは人生でいちばん日本文学を読んでいたように思う」と書かれています。
そう、あのときはかなり集中的に読んだ。日本文学が主でしたけど、文学全集なんていうのは、あの頃しか読んでないですよ。
―― 家には大きな本棚があって、そこにたくさんの本がぎっしり詰まっていたんですね。
世田谷の家から運んできた高さ六尺(約一・八メートル)の太い木の本箱が三台あって、それがぼくの図書館だったな。その頃読んでいたのは、筑摩書房の『現代日本文学全集』。三段組みで活字がぎっしり詰まっている。あれ、鍛えられましたね。
―― おかしいのは、ひと月も“失踪”していた椎名さんが家に戻ってきたとき、みなさん何事もなかったように受け入れていることです。
まあ、ある程度その下地はつくってあったんですよね。下地っていうのもおかしいですけど、きょうだいがたくさんいたし、いろんな人が出入りしていたから、一人くらいいてもいなくてもいいというか、気がつかれなかったというか。
―― 格闘技系のお友だちが多い中で、箱根には、「素直でこころやさしい」高橋コロッケ君と一緒に行ったことで、お母さんも安心されていたようですね。
そういうのはあったでしょうね。高橋コロッケ君は、本当にお地蔵様みたいな人で、信用もされていた。ああいう欲のない辛抱強い人間がいるんだなと、後から考えると、実に頭が下がる思いです。
彼は不思議な人だね。ぼくの周りでも、彼がいま一番安穏とした生活してるんじゃないかな。本にも書いたけど、箱根から五十年ほど経って、ぼくのサイン会に来てくれたんですよ。
―― 百人くらいの列の最後尾に遠慮がちに並んでいたんですね。
ぼくの本を読んでくれていたんだというのがうれしかった。
―― 今回の本には、目黒さんはじめ、いろいろな友だちが登場しますが、改めて、椎名さんにとって、友だちというのはどんな存在でしょうか。
ひと言でいえば、きょうだいよりも親しくなれる存在ですね。ぼくにはきょうだいがいっぱいいるけど関係がけっこう複雑で、どこからが血のつながっているきょうだいだかわからないようなところがある。そういう意味では、作家になるにはふさわしいような家に育ったんです。
父親が亡くなったときにいろんなことがわかってくるという、私小説の世界によくあることを実際に体験しましたから、それはありがたい舞台装置でした。きょうだいとあまり親しく付き合えなかった分、友人たちとはすごく親しく付き合えた。
―― 友人たちの中でも、やはり一九七六年に「本の雑誌」を創刊して以来五十年近く併走してきた目黒考二さんは特別だったと思います。あるものが書き上がったときに、これを目黒さんがどう読むか、常に気になっていたのでは?
一番厳しい評論家と一緒に走っているみたいなものですからね。ときには、なんでこれをもっと評価してくれないんだと思うこともあるけど、そうはいえないですからね。「俺のこと褒めてくれよ」なんて、いったことない。
―― それでも、自分の一番の理解者に褒めてもらいたいというのは、ありますよね。
ありますね。わりと気合いを入れて書いたSFがあったんですけど、見事に無視されました(笑)。非常に悔しい思いをしましたけど、しょうがない。日本で一番厳しい評論家ですからね。
(『kotoba』二〇二三年冬号収載「ぼくの昏く静かな失踪願望について」)