椎名誠の私小説、目黒考二の私小説
―― いま「本の雑誌」に連載されている小説「哀愁の町に何が降るというのだ。」は、目黒さんが「私小説の怒濤の奔流であるものをまだ椎名は書いていない、それはずるいじゃないか」ということに対する返答のようなものだと書かれていますね。
目黒のいう「怒濤の奔流」はセクスアリスのことなんですよ。でも、恥ずかしくてね。だからずっと書かずにいたんだけど、いざ書いてみるとやっぱりかっこ悪いんですよ。でも、目黒はそうは思わないんですね。
―― コロナ禍でしばらく会えなかった後に、久しぶりに会った目黒さんからいわれたそうですね。「シーナ、私小説を軽んじてはいけないよ。もっと真剣に覚悟を決めて、私小説の本質から逃げずに、真実に近いところをきっちり書きな。……いまや私小説は文学世界の片隅分野に追いやられつつあるけれど、だからこそ意地を見せるときでもあるんだ」と。
はっきりいってましたね。逃げているところが俺には見えるからって。とにかく厳しいんだ、あいつは。
『岳物語』みたいな、ああいう明るく楽しく健康的な小説は、私小説としてはうそだ、と彼はいうんですよ。うそじゃないんだけど、取り繕っているのは確かなのでね。
でもぼく自身、それまでの私小説といわれる小説を読んでいて、なんで私小説はみんなこんな暗くて厳しい話なんだろう、だったら、明るく楽しい私小説もあるんじゃないか、と思ってもいた。
―― それから何十年か経って、「自分の本当をさらけだす」ものを、いまだったら書けると?
そうですね。ここでちゃんとお勘定払っとかないと、食い逃げ、飲み逃げみたいな後味の悪さがありますね。
―― 目黒さんにとって、私小説というのは大事なジャンルだったようですね。
ただ、ぼくも目黒も、いまの時代に私小説が読まれるかというと、かなり失望していましたね。私小説は、いまの読者に決して厚遇されるものではない。やはり私小説は、エンターテインメントにはなりえないですからね。でも、ぼくたちの青春時代に読んでいたのは、志賀直哉にしても、太宰治にしても、みんな私小説だったんですよね。下村湖人の『次郎物語』なんか、次郎を自分に置き換えるという、ちょっと暗い読み方をしてましたけど、それが楽しかったんですよ。
私小説といえば、目黒は父親のことを相当尊敬していたし、書いてもいましたね。ぼくはそういう彼を尊敬していたんですよ。自分もそうしたいなあと思って。父と息子の関係というのは、私小説の原点ですからね。
ぼくの父親は小学六年のときに他界しているので、父親に関してのエピソードは人から聞いたものが主になっちゃう。かろうじて自分が体験しているのは、世田谷時代の不思議な森の中に住んでたような頃の記憶ですからね。その点、目黒の中の父親像というのは、本当に私小説みたいな感じです。
――『暗夜行路』の世界?
ええ。ぼくは何度か会って知っているんですけれども、目黒をもっと頑固にしたような感じで、本当に活字にのめり込んでいる人でした。いつも風呂敷を持って、たくさんの本を買いに古本屋なんかに行ってるわけですよ。目黒の中にある活字人間みたいなところが、父親の中にもあるんですよね。結局、目黒自身がそういう人になっていくわけだから、端で見ていておかしかったけど、うらやましくもありましたね。
―― 一時期、「本の雑誌」の発送を目黒さんのお父さんが引き受けていたそうですね。
ええ。部数が少ない頃ね。書店からの注文や読者からの電話を目黒のお父さんが受けたりもしていた。
―― 目黒さんのお宅が連絡先だったんですね。
そう。だから、お父さんは大変でしたでしょうけど、多分うれしかったんじゃないでしょうか。こんなふうに世界に挑戦しているような息子を見て。もうちょっとお父さんと会って話をしたかった。目黒を本当に暗く、暗く私小説化したような人間で、かっこよかったですよ。