「平和」という言葉が禁句だった時代
早稲田大学在学中に、生きのびた鉄血勤皇師範隊の人々の手記を集め『沖縄健児隊』(外間守善と共編、1953)というタイトルで出版したことがある。松竹映画会社がその本を映画化したため、それによって入ってきた資金を使い、慰霊碑「平和の像」を東京で作って、沖縄に持ち帰る計画であった。
しかし、「平和」という言葉を使うと共産党に属していると疑われる時代であり、沖縄に「平和の像」を持ち帰るのは沖縄の恩師にも反対された。「米留」の合格が取り消しになるという可能性があったからだ。
それでも、大田さんは「平和の像」を沖縄に持ち帰ることにした。
大田さんの下宿先には読書傾向や交友関係などについて調査する諜報機関の者が情報収集に来たという。「米留」試験に合格していても、大田さんだけには最後まで出発日や留学先の大学名の連絡が民政府(琉球列島米国民政府)からこなかった。
渡米できると知らされたのは、出発当日の朝だった。大田さんは「着の身着のままで出発した」。
「米留」制度を設立したアメリカ側の思惑をどう考えているのか。大田さんに聞いた。
「アメリカが沖縄占領をした時にどうするかというと、当然アメリカを支持するような若者たちを育てるということをした。どこの占領軍でも同じことを考えるわけです。日本が中国を占領した時、中国から留学生を呼んで訓練した。ベトナムなんか、フランスが占領している時に、留学生をフランスに呼んだわけです。インドなんかもそうで、イギリスに留学生を呼んだわけです。
そうすると、きわめて皮肉なことに、留学制度というのは、そういう風にアメリカ・占領者を支持する若者たちを育てるために本国に呼んで勉強させるのだけれども、世界のどこを見ても、真っ先に占領軍に反対するのは留学生なんですよ」
大田さんは1954年7月に米軍用船でホワイト・ビーチから出発。オークランドのミルズ大学でのオリエンテーションを経て、船の中で知らされた留学先のシラキュース大学に入学、ジャーナリズムを学んだ。28歳だった。