同じ占領下でも東京は違った

1950年、大田さんは「日留」、「米留」両方に合格していた。

「日留」か「米留」か。尊敬する琉球大学の仲宗根政善先生に相談したところ、日本の大学を出てからアメリカへ行くことを助言され、「日留」を選んだという。

1949年、第一期の「契約琉球学生」として早稲田大学に留学した。英語・英文学を専攻した理由は、戦時中のある出会いであった。激戦地の摩文仁で一緒になった東京都出身の「白井兵長」がその人である。

彼は東京文理科大学(現・筑波大学)出身で英語が堪能だったため、米軍が置き捨てた英文雑誌を拾って大田さんにその内容を教えてくれた。日本がポツダム宣言を受諾したことが書かれた英文記事を前に、大田さんは自分の無知さを思い知らされた。

白井さんは、大田さんに生き延びることがあれば東京で英語を学んではどうかと伝えたという。その言葉が大田さんの心にずっと残っていたのだ。

大田さんは、自身の「日留」経験をまず「表現しようもないほどの解放感」があったと表現する。当時まだ連合軍占領下にあったにもかかわらず、東京ではアメリカ兵の数が非常に少なく、街中にほとんどいないことに驚いた。

同じ占領下といえども、沖縄の場合はアメリカ兵が主人のように振る舞っていて、それだけに、東京での生活が「別天地のような気」がした。「日本人は、堂々としていて、米兵の言動も、沖縄の場合とはずいぶんと違う」という印象を抱いた。

沖縄は、アメリカ軍による基地拡張のための土地の強制接収や住民の抵抗運動が盛んな時期だった。また思想調査や言論統制が行われており、自由に発言できない状況だった。留学先の早稲田大学では、自由な発言を学生がしていた。その様子が大田さんにとって新鮮だったのだ。

大田さんは、早稲田大学4年生の時に「米留」試験を受け合格する。しかし、渡米できるかどうかは最後まで分からなかった。