入るときは「皮」、やめるときは「首」
を切られるイスラム教
本村 一方で、ユダヤ教とイスラム教にはある割礼が、キリスト教にはありませんね。
佐藤 エルサレムの宗教会議で、割礼をめぐる有名な論争があったんですよね。
本村 もともとは熱心なユダヤ教徒としてキリスト教を迫害していたパウロが、キリスト教に回心してから十数年後の会議ですね。
佐藤 新約聖書のガラテヤ人への手紙では、この会議で、割礼を前提にすることなしに異邦人に福音を宣教する承認を得たとされています。要は、そこで「オチンチンの皮を切らなくてもメンバーにしていい」と考える人たちと、「やはり男性器先端の皮は切るべきだ」と考える人たちの折り合いがつかなかったから、棲み分けることにしたわけです。
「切るべきだ」派はユダヤ人の世界で伝道し、パウロをはじめとする「切らなくてもいい」派はヘレニズム世界に行くことになりました。
その後、「切るべきだ」派のキリスト教は全部なくなり、パウロ派だけが残ったので、いまのキリスト教には割礼がないんです。
本村 つまり割礼がないのは、キリスト教そのものの特徴ではなく、パウロ派の特徴なんですね。
佐藤 そうです。割礼の問題はいまでも重要で、たとえばロシア、ウクライナ、ベラルーシのユダヤ教徒の中には割礼をしない人がけっこういます。なぜか。
ルーマニアのゲオルギュという作家の小説を原作にした『25時』という映画を見ると、それがわかります。ナチスが踏み込んだ先で、そこにいるのがユダヤ人かどうかをたしかめるために、パンツを下ろさせるシーンがあるんですよ。
オチンチンの皮が剝けていると、割礼をしたユダヤ人と見なして殺しちゃう。その記憶がまだ残っているから、ナチスドイツが入ってきた地域では、ユダヤ人でも割礼しない人がいるんです。
本村 身を守るために。
佐藤 そうです。ロシア人はほとんど包茎ですからね。だから、ロシアの大臣と一緒にサウナに入ったとき、ほかの日本人を見て小声で「佐藤さん、あいつはムスリムなのか?日本人だからユダヤ教徒ではないと思うが」と聞いてきました。
「いや、あれは包茎手術を受けているんだ」と教えたら、「そんな手術があるのか。なんでそんな意味のないことをするんだ」と怪訝な顔をしてましたね(笑)。
本村 日本では別の意味でなぜか重視されていますよね(笑)。スポーツ新聞なんか、毎日のように包茎手術の広告が載っている。
佐藤 アントニオ猪木先生が1990年の湾岸戦争の際、イラクで人質にされた在留邦人を解放しに行きましたよね。あのとき在京イラク大使に「ムスリムになったほうがいいでしょうか」と相談したそうです。「そのほうがずっと人質解放の可能性が高まる」と言われてムスリムになったんですが、割礼については「包茎手術済みならそれでかまわない」と言われたんですって。
だけど帰国後にこんどは「イスラム教をやめることはできますか」と聞いたら、「できます。ただしやめた場合は首を切ります」と言われたそうです。「佐藤さん、イスラム教は入るときはチンチンの皮を切られて、出るときは首を切られる」とおっしゃっていました。イスラム教の特徴を端的に表す印象的な言葉でしたね。
本村 キリスト教もやめることはできないんでしょう?
佐藤 イスラム教みたいに「やめたら首を切る」とは言っていませんが、脱会規定がありませんからね。これはキリスト教の怖いところです。
日本共産党も創価学会もやめるための規定はありますが、キリスト教もイスラム教も、破門されることはあっても自分からやめることができない。これは任俠団体と近いですよね。任俠団体も、「盃(さかずき)を返すから堅気(かたぎ)になります」というのは非常に難しいでしょ。
組そのものが解散することはありますが、やめることはなかなかできない。そういう意味でも、やはり近代とは相容れない原理でできている宗教なんですよ。
写真/shutterstock
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