ヤクルト選手会の苦悩と広沢克己の尽力

チームの枠を超えて、選手たちは団結し、結集した。西井はその熱量を嫌でも感じることになり感動を覚えた。

「中日の宇野勝なんかは、『こいつ(西井)は選手出身だから信頼できるぞ』と言ってチームメイトに紹介してくれました。広島の高橋慶彦は同級生だったんでまたよくしてくれて、山本浩二さん、衣祥雄雄さんに繋いでくれました。

そして関西のチームを一番まとめて下さったのは、近鉄の梨田昌孝さんですよ。人格者で、今でも頭が上がらない。セ・リーグの西のチームは阪神の掛布雅之さん、東は斉藤明夫さんが仕切ってくれました。

だがやはり、球団からの圧力もあった。

「(日本ハムの)高橋直樹さんなんかは燃える選手会長で、球団とかなりやりあったからトレードに出されてしまったと思うんです。

それでもほとんどの選手たちが恐れずに団結してくれました。日本ハムでは柏原純一さんも古屋英夫さんも、僕が連絡して嫌がる人は一人もいなかったです」

西井のミッションにおいて重要だったのは、都労委への書類提出以上に、選手間の連絡調整であった。中畑の意を汲んでコマネズミのように球場から球場へ走り回った。

「だいたい11時から13時の間に球場入りした選手がつかまえられるんです。確かに大変でしたけど、裏方としてしんどい思ったことは一度もなかった。

というのは、皆が熱心だったからですよ。全員がそれぞれの意思を持っていて『じゃあ、清にこう伝えてくれよ』と打てば響く答えが返ってきたんです」
 

「中畑さんはアレがなければとっくに巨人の監督をやってますよ」選手会立ち上げに奔走した“右腕“が語る「中畑流」と「落合オレ流」それぞれの志_3

社団法人プロ野球選手会を組合にするにあたり、労働運動をしているいくつかの既成の全国中央組織(ナショナルセンター)からの誘いがあった。

しかし、中畑はあくまでも独立系の組織にすることにこだわった。選手の権利は確保したい。しかし、政治色は排したいという考えからであった。

西井はヤクルトの選手会が親会社からの圧力によって脱退した事件(1986年4月)の際も当事者の選手たちを間近に見ていた。

角富士夫は、九段下のホテルグランドパレスで開幕前のチーム合宿中だった中畑に脱退を伝え、「ストライキなどの過激な手段についていけない」と記者会見まで開いた人物だが、同い年であり、家も近かったので何度も話をした。

「角とは、初台のステーキハウスでよく会ったんですが、『困った』と心底、苦しんでいました。『俺たちも(労組を)抜けたくて抜けるんじゃない。それはわかってほしい』とさかんに口にしていました」

ヤクルトの選手会は角と尾花高夫、小川淳司が三役であったが、当時は皆、げっそりしていたという。

「あの役員三人が板挟みで苦しんでいたんですが、その下に広沢克己がいました。広沢がすごくがんばってくれたんですよ。プロ野球労組については彼にもぜひ話を聞きに行くといいですよ」

明治大学から入団してまだ二年目であったが、すでにレギュラーの地位を確保していた広沢は、ヤクルト選手会が復帰するために献身的に動いていたという。長嶋弁護士の取材でも重要な人物であったとその名前が出て来た。