「御輿に乗るのは巨人の選手が一番なんだ』
「あの頃は、選手の年俸の最低保障がめちゃくちゃ安かったんです。プロとは到底、呼べない金額で、そうすると食えないものだからタニマチに夜の食事に誘われると断れない。でも、顔を出すと今度は練習に身が入らない。それでは悪循環です」
権利の主張のみならず、競技能力向上のためにも早急の改革が必要だった。
なぜ、社団法人の中で抜擢された初代リーダーが中畑だったのか? という問いに西井はこう答えた。
「村田兆治さんが『こういうのの御輿に乗るのは、巨人の選手が一番なんだ。だから清やれ』と。他の選手も中畑さんがやるなら、ということで結束しましたよ」
旗振り役の中畑と長嶋弁護士の二人に、西井は大相撲の横綱だった輪島が経営するちゃんこ鍋やで引き合わされた。
「お前、日ハムにいたやつだよな?」と中畑は覚えていてくれた。西井の回顧は続く。
「中畑さんが二軍にいた時代に被っていたんです。うれしかったですね。あの頃の巨人の二軍はすごかったんですよ。篠塚利夫、平田薫がいて、岡崎郁でさえ補欠でした。同じグランドにいたという記憶があったおかげか、私はすぐに受け入れてもらえました。
選手出身の事務方第一号ということでプレッシャーはありましたが、イースタン(リーグ)でやっていた高木豊(大洋)さん、袴田英利(ロッテ)さんなどが『オゥ!』と気さくに声をかけてくれました」
1984年は根回しの年となった。オールスター開催時と12月のオフに行われるテレビの収録の前に各チームの選手会長に集まってもらい、極秘でレクチャーが行われた。
当時は、歌合戦やクイズに運動会と、プロ野球のチーム対抗番組が数多くあったのでオフのほうが集いやすかったのである。
翌年、西井は東京都労働委員会からの認可を受けるために奔走する。都労委に認めさせるためには、全選手の加入届が必要だった。1985年2月、12球団のキャンプ地をすべて回った。瞬く間に署名は集まった。
「特に印象に残っているのが、阪急ブレーブスでした。山田久志さん、福本豊さん、蓑田浩二さん、そうそうたるメンバーがいて、緊張したんですが、この3人が最も熱心に聞いてくれました。あとは山沖之彦や松永浩美も食らいついてきましたね」
昭和を代表するエース、山田は言った。「組合になると、何が変わるんだ?」
要望が要求に代わるんですよと説明すると納得し、夜にわざわざミーティングを開いてくれた。そしてキャンプ以後も山田は西井をかわいがってくれた。
「たまたま新幹線での移動が一緒になると、グリーン車のとなりの切符を買ってくれるんです。『清はどうなんだ? 清は大丈夫なのか?』って中畑さんを心配してくださいました」