「落合さんは筋は通したと思うんです」


「そのうち、落合博満さんがロッテのマネージャーだった松原徹さんを事務局に引っ張って来たんですよ。どこだったか、トイレで一緒になったときに隣で小便をしながら、『おい、松原を入れるからな』と伝えてくれたんです。松原さんの仕事ぶりや人柄を見ていたんでしょうね」

後に球界再編や東日本大震災の際の対応で辣腕を振るう事務局長である。

「それで都労委に認可されると、西武の背広組だった坂井保之さんが機構側の選手会担当になったんです。坂井さんというのは、選手の話を聞く耳をもっていたし、当時、この手の話は西武抜きには進められなかったから坂井さんはうってつけの人だった。

ヤクルトも広沢の尽力で一年を待たずに復帰を果たしたので、一度、12球団の全選手を集めて総会をやろうよとなったんです。1987年12月オフだったかな」

12球団が連帯して同じテーブルに着いた。選手の7割が来場していた。西井の苦労も報われたが、彼はその後、一身上の都合によって選手会事務局を去ることになった。

多くの選手がその能力と人柄を惜しみ、梨田や袴田などは就職先としてどうかと、自分の知り合いの会社を紹介してくれた。最終的には、長嶋弁護士の世話により、株式会社旭新に入社し、ついには社長になった。自らがゼロから切り拓いたセカンドキャリアといえよう。

プロ野球選手会は創世記から、38年が経過したが、あらためて今、西井が振り返る。

「やっぱり中畑さんの存在でしたね。私は球場入りの際、車に同乗していろんな話をしましたが、あの人が無私の精神で動かなければ、事態は変わらなかったですよ。個人的メリットは何もなかったんだから。選手会の立ち上げをやっていなければ、もうとっくに巨人の監督をやっていますよ。

本人は、打撃においても首位打者を狙えるくらい脂ののった年だったのに、グラウンド外でいろんな仕事を抱えていましたからね。それでも深夜にビデオを見ながら、フォームチェックされていました。本当に大変だったと思います」

中畑にはこんな野望もあったという。

「中畑さんにはコミッショナーを選手出身にさせようという思いもあったんです。選手の気持ちがわかる人でないと球界のトップは務まらないですよ。

それで近鉄の監督をされていた西本(幸雄)さんにやってもらおうと梨田さんが動いたんです。球団側、機構側の両方が首を縦に振る人でないとね。ただ、本人が固辞されたんです」

サッカー・Jリーグが選手出身の川渕三郎をチェアマンに担いで開幕する前である。中畑の改革はかなり、長期を見据えていたのである。

一方、俺流を貫きとおし、選手会を脱会しながら、獲得したFAの権利については真っ先に利用したことで批判もあった落合について、西井はこう語った。

「確かに落合さんは、統一契約書問題についてなかなか着手しないことを歯がゆく思って選手会を抜けました。でも筋は通したと思うんです。抜ける前に松原さんをリクルートして、すごく貴重な人材を登用してくれた。

組合費は年棒に合わせて設定されていたから、落合さんはべらぼうに高かったけど、しっかり払ってくれました。ファームの選手のことも、ものすごく考えてくれていました。

私も選手時代からのつきあいで、同じイースタンの二軍にいましたから、境遇がわかるんです。当時から、何でこの人、二軍にいるんだろうと思うほどにすごいバッティングしていましたけど」
 

1987年、選手会として広島カープの衣笠選手(中央)を表彰した際の落合理事長(左)、中畑会長(右) (写真/共同通信社)
1987年、選手会として広島カープの衣笠選手(中央)を表彰した際の落合理事長(左)、中畑会長(右) (写真/共同通信社)
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落合は西井が会いに行くと必ず『飯食っていけ』と赤堤の家に招いてくれた。家を辞すと、必ず信子夫人と一緒に車が角を曲がるまで外で見送ってくれた。

そしていつも別れ際に「いいか、清にこれだけは言っておけよ」と前置きして、メディア対応や統一契約書、交渉のポイントを口にした。

西井は柔和な表情で回顧した。

「あの人は、情は深いんですよ。落合さんは社団法人時代の理事長をやっていたんじゃないかな。私が現役を辞めたときにも真っ先にお前、がんばれよと言ってくれたのも落合さんでした」

最後にうれしそうに西井はこう締めくくった。

「今、落合さんと中畑さんが日曜日に並んでテレビに出ているじゃないですか。あれを見るとたまらなく懐かしくなるんですよ」

中畑流と落合オレ流、それぞれ生き方は異なれども球界を改革すべく志を同じくした仲間との時間をあらためて噛みしめているようだった。


文/木村元彦