中島みゆきのデビュー条件
「レコードは出すけど、それ以外の活動はしない」
1975(昭和50)年5月。23歳の中島みゆきは、『第9回ヤマハポピュラーソングコンテスト』に『傷ついた翼』という曲で入賞し、そこから本格的な音楽活動に入った。そして9月25日にキャニオン・レコードより『アザミ嬢のララバイ』でレコード・デビューする。
リリース直前の16日、父親が脳溢血で倒れ、昏睡状態で病院に運ばれた。彼女が東京から北海道の病院に駆けつけても、父の意識は戻らなかった。
そんな状況で中島みゆきはひっそりとデビューした。
「レコードは出すけど、それ以外の活動はしない」というのが本人の希望する条件だったので、テレビやラジオなどへの出演、マスコミへのプロモーションなどはまったく行われなかった。
10月に予定していた『第10回ポピュラーソングコンテスト』(通称ポプコン)への出場をキャンセルしたとしても、家族の切迫した状況を考えれば何の不思議もない。
しかし、『時代』という新曲を作った中島みゆきは、10月12日に開催されたポプコンに予定通りに出場する。この時は父の病室から静岡県のつま恋(リゾート)に向かい、会場のエキジビションホールに入ったという。
そして12,000曲にのぼる応募曲の中から、『時代』は見事にグランプリに選ばれた。
その年のポプコンで優勝した楽曲と、優秀曲2曲が世界歌謡祭の日本代表となる取り決めになっていた。中島みゆきは『時代』で、因幡晃の『わかってください』、ONの『失うものは何もない』とともに、世界歌謡祭に出場することになった。それが新しい世界に続く道となる。