#1「あの頃大黒摩季は6人いた!? 1年364日スタジオに入り続けて駆けぬけた不屈の30年」はこちらから
大黒摩季は昭和生まれの初音ミク!?
――90年代に、実際に世の中ですごいことになっていると実感したのはいつだったんですか?
私の子どもの頃の写真が週刊誌に出たことがあって(笑)。
「あの謎の大黒摩季の秘蔵写真!」みたいな記事で、金太郎みたいな私の子ども時代の写真が載ったんですけど、そこに掲載されていた大黒摩季の説明を読んで、「あ、今、そんな事態になってるの?」って。私は人にちやほやされるのが嫌いだし、テレビも出なくていいならそれでいいって思っていて。
でも、とうとう大黒摩季が6人にまで増えて、これは収集がつかないし、どこかできちんと出た方がいいっていうことで、97年の8月1日にレインボースクエア有明で初めてのライブを開催することにしたんです。
――当時は、あの大黒摩季がついに!っていう盛り上がりでしたよね。
そうそう。「ベールを脱ぐ!」って。「ベール着た覚え、ないけどね!」みたいな(笑)。
――(笑)。
『ミュージックステーション』にも出て、そのままアリーナツアーに入って、また潜った感じです。当時は、売れてるけど、誰も私の顔を知らないっていうのが心地良かったですね。だから、初音ミクのはしりですよ。昭和生まれの初音ミク(笑)。
当時は、自分でもこんなアメリカンドリームみたいな面白いこと、起こるんだって思ってました。1枚目の『STOP MOTION』は、「北海道の親戚が買ったんですか?」っていうぐらいしか売れなくて、またバックコーラスに戻されて。
ある日、ビーイング(所属レコード会社)のビルで、お世話になったCMプロデューサーの方に会って「明日、プレゼンがあるのに全然、曲がないんだよ。お前、書けるか?」って言われて、恩返しのつもりで、その日徹夜で作って出したのが、『DA・KA・RA』だったんです。1万枚いくかいかないかみたいなところから、100万枚売れて。作家でよかったーって思いました。
以来、「落とし物には福がある」って、私の座右の銘です(笑)。