「ものづくりジャパン」へのノスタルジアが大ヒットに繋がった?

『ゴジラ-1.0』は、そのような意味での新自由主義の作品なのだろうか。

『シン・ゴジラ』と『ゴジラ-1.0』の対立においては確かにそう見えるし、それ自体は間違いではない。だが、冒頭で述べたとおり、それでは『ゴジラ-1.0』が明確に志向する──そして山崎貴監督の他の作品も志向する──ナショナルなもの、「日本」への志向はどう考えればよいだろうか。

先述の記事では私はそれをグローバルな文化産業市場における日本的なものの商品化と説明した。だが、ここにはもう一つの説明がありうる。

それは、「小さな政府」を標榜する新自由主義が、経験的には権威主義的な国家をともない、それによって推進されてきたという事実である。例えば現在進められている高等教育(大学)改革を考えてみればよい。それは大学教育を「市場化」するという目標を掲げつつ、実際は大学を国家の権限の下に置き、直営とすることによってそれを達成しようとしている(現在進行中の国立大学法人法「改正」をめぐる議論を参照)。

つまるところ、「国家か市場か」という新自由主義が提示する二者択一は幻想なのだ。それらはこれまで結託し続けたし、これからもそうだろう。

『ゴジラ-1.0』公式ポスター
『ゴジラ-1.0』公式ポスター
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『ゴジラ-1.0』は「ものづくりジャパン」へのノスタルジアにあふれた作品である。そして「民間のヒーローたち」の集団的なプロジェクトを中心に据えたことは、この映画の人気の秘密であろう。だが、「民間」を強調するこの(新)自由主義が、去勢された日本の再軍備化の代替物になりうることは、矛盾ではない。現実においてそれらは一体のものだからだ。国家と資本の結託は、新自由主義というまやかしの世界観を経ても消え去ってはいない。その限りにおいて、『ゴジラ-1.0』における「民間」を、文字どおりに読むことは許されないのである。

文/河野真太郎
写真/Shutterstock ゲッティイメージズ